▲ 右村々中津川宿助人馬御役仰せ付けられ、その意をうけ存じ候 何時によらず、中津川問屋より差し図次第、時刻を移さず人馬を出し、御役相勤め申すべく候
と、落合・中津川両宿役人の連名をもって、岡田将監あてに提出している。なお町内の田瀬村は、両宿へ道法(のり)四里半内として寄付村よりはずし、領内の毛呂窪村・蛭川村・姫栗村は大井宿助郷人馬寄付村に指定されている。
中津川・落合宿では、苗木領八か村は木曽川を隔てて北岸地域にあるので、木曽川増水のときは、駒場村・手金野村・千旦林村など南岸の村々で八か村の人馬も勤め、追って、北岸八か村がその賃銭を支払うこととした。
表10 寛永十七年[中津川宿 落合宿]助郷人馬寄付村の訳
支配関係 | 高 石 | 村名 |
尾州御領 | 一〇八八・〇六 | 茄子川村 |
馬場三郎左衛門地行所 | 二八〇・〇〇 | 同村 |
尾州御領 | 五五二・六二 | 千旦林 |
同断 | 七七二・〇〇 | 駒場 |
同断 | 四四六・五四 | (手金野) 手金 |
同断 | 四八〇・七八 | 落合 |
(苗木領) 遠山刑部少輔領分 | 七四五・八九 | 福岡 |
同断 | 三一三・四八八 | 高山 |
同断 | 一〇八・三七 | 瀬戸 |
同断 | 九七二・二〇 | 坂下 |
同断 | 二五二・三五六 | 上野 |
同断 | 八六・四七 | 下野 |
同断 | 九九九・二五 | 日比野 |
同断 | 九五・〇九 | 上地 |
(岩村領) 丹羽式部少輔領分 | 一五八九・六四 | 阿木 |
合計 | (ママ) 八七八二・九五九 (七五四) |
|
一三三八・〇六 | 中津川 | |
総計 | 一〇一二一(石) |
(福岡村庄屋孫六郎のまとめた御用伝馬録より、県史近世7) |
御用伝馬録 水垣文庫所蔵
この助郷村に課せられた規定人馬は、正徳二年(一七一二)の定で時代とともに交通量が増すにつれ、安永四年(一七七五)福岡村では二一一人、二九匹さらに幕末の落合宿へ安政五年(一八五八)中に高山村では二九〇人、九〇匹となっている。この人足は、合宿の中津川宿についてもそれ以上が課せられ、文久元年(一八六一)和宮様下向に際して福岡村の割り当ては、
▲ 文久元辛酉年 和宮様御下向ニ付 福岡村え人馬当り高取調左之通
一、高七百四拾五石 人足九百八拾壱人
馬五拾六疋 [遠山美濃守領分濃州恵那郡]福岡村
但、百石ニ付 人足百三拾壱人七分つゝ
馬七疋五分弐厘つゝ
とあって、一〇月、一一月に行われており、中山道にとっては開設以来、前代未聞の大通行であった。このことは、助郷制度による村や農民にとっての最大の苦痛であり、郷村の疲弊はますます大きくなるばかりである。
高山村助郷人馬請払帳 高山区蔵