伝馬(てんま)

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往来の旅客や荷物・文書を運ぶのは、馬の背や人の背であったから、各宿場には一定数の人足や馬を常備して、宿から宿へと継ぎ送った。この継立ての馬を伝馬といった。この人馬の継立てこそが、宿役の負担の最たるものであった。その負担には、伝馬役(馬役)と歩行役(人足役)とがあって、求めに応じて次の宿駅へと運ぶ伝馬制度である。
 当地域に初めて伝馬銭が賦課されたのは、助郷制度が確立してくる江戸中期以降と考えられ、さらに中山道を除いた地方の道路(脇往還)の「飛騨街道」「黒瀬街道」による、人馬継立ての課役増大にかかわってくるのであり、助郷と伝馬制度の二重助郷といわれる農民の負担割当である。
 慶応二丙寅年(一八六六)飛州伝馬賃銭書上帳では、この年一か年に、中津川宿から飛州高山への飛騨街道の伝馬割当に対する福岡村の伝馬銭四百五貫八百六拾三文が書き上げられている。
 「伝馬先触れ」の実際を、安永四己未年(一七七五)の「福岡村向伝馬御触写留帳」でみると、
▲    覚
  一、内田安平様より
    妹尾順兵衛様
           へ
    田中市右衛門様
 御用状壱通宿継、帳面壱冊、駄賃銭三十六文、日比野村より受取、内二十二文、人足壱人代引
  残テ、十四文
  右之通り下野村へ送り申候 以上
   未正月朔日 酉中刻
     覚
  一、人足三人
     内 弐人 駕篭
       壱人 分持
右は我等儀、今日昼時信州福島宿出立、飛州高山へ相越候間、宿々昼夜之人足無滞差出し可給候、尤、御定メ之賃銭相払候、且又、川越舟渡し有之場所ハ前宿より致通達無差支之様ニ取斗可給候 以上
  午十二月廿九日  大原彦四郎手代 不破郡次郎
      信州 福嶋宿より
      中津川使より
      上地通り
      飛州高山まで
     右宿々問屋
 廿九日上松泊り、正月元日妻篭泊り、二日付知泊り、
 三日小坂泊り
 追て先触ハ泊り宿より高山陣へ可相届候 以上
 と、正月元旦にかけて、余程の急用な先触れであったことが察せられ、昼夜遅滞なく木曽川渡し舟など予め前宿から手配するよう割当てている。もっとも、伝馬銭は規定通り払うことを先触れに記載し、この割り当てルートを伝える仕組みをもって、元旦前々日の二九日より未年正月八日の間に、田瀬村まででも計六通の至急先触れが届いているのである。
表11 慶応2年 苗木領内 伝馬大宛領内平均割表 立教大学蔵 (単位:貫)
村名 A村掛 B不勤村より取分 C引残 D内給所分 E村出残 F外ニ上より被下分 G備考
日比野 1654.149 898.241 755.908 262.354 493.515 35.734
上地 138.031 22.944 115.087 31.928 83.155 5.439
瀬戸 172.802 69.969 8.167 勤高165.832
福岡 1283.927 817.446 466.477 22.250
高山 490.349 234.800 255.549 12.078
坂下合郷 400.954 108.176 292.774 13.839
〃町組 570.840 134.993 435.843 20.604
〃下組 471.070 84.648 386.422 18.265
上野 432.630 269.312 163.308 7.720
蛭川 833.880 338.253 495.627 23.429
田瀬 436.338 288.142 198.192 9.367 飛州伝馬加助分
中の方 404.656 391.456 13.200
切井 262.580
飯地 226.954
毛呂窪 464.770 172.940 291.830 13.793
姫栗 500.790 210.595 290.191 13.718
河合 352.964 230.881 122.079 5.769
福地 102.279
赤河 164.286
犬地 235.609
上田 98.430
峰下立 84.062
黒川 591.124
神土 318.136
柏本 261.634
中屋 138.601
越原 231.203
有本 73.921
油井 220.444
下嶋 76.182
成山 117.500
(7576.332) (210.172)