助郷嘆願

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安永四己未年(一七七五)福岡村庄屋藤九郎は幕府の指示によって、中津川・落合の両宿へ助郷総代として宿役人とよく相談をしながら勤務することにしている。特に苗木領内川北八か村助郷村「向伝馬」は助郷出勤をめぐって共通の問題点が浮上してくるのである。即ち、
  ① 木曽川を渡らなければ宿駅へ行くことができない。
    ・毎年夏場の期間中、木曽川出水の折は助郷出勤ができず、高価な賃銭を代償として負担したこと。
    ・木曽川出水時でなくても、夜六ツ以後は渡舟不可のため急触に間に合わないのに、やはり賃銭負担を強いられたこと。
  ② 助郷負担の多い幕末になると、「向伝馬」八か村の助郷村以外に、加助郷・大助伝馬・増助郷・当分助郷と苗木領全域に亘って負担させたこと。
  ③ 中津川・落合両宿以外に、苗木領内通行の飛州伝馬の負担も増加してきたこと(二重の課役)。

助郷人馬請払帳 高山区所蔵

表12 文久元~元治元年 助郷一三か村出勤人馬数(中津川宿)
村名 文久元年(一八六一) 文久ニ年(一八六ニ) 文久三年(一八六三) 元治元年(一八六四)
人足(人) 馬(匹) 人足(人) 馬(匹) 人足(人) 馬(匹) 人足(人) 馬(匹)
駒場村 一一七二 二四九 六五九 一〇三 三五三七 三七六 九一八 七八 ○文久元年は和宮降嫁の年

○文久三年は将軍家茂上京の年









手金野村 六七七 一四四 三八一 六〇 二〇四三 二一七 五三一 四五
千旦林村 八三八 一七八 四七一 七四 二五二八 二六九 六五七 五六
茄子川村 二〇三八 四四二 一一七三 一八二 七二八六 六六七 一六二一 一八八
阿木村 二四一三 五一一 一三五七 二一二 七二七九 七七四 一八八九 一六〇
上地村 一四四 三一 八一 一三 四三五 四六 一一三 一〇
日比野村 一五一七 三二二 八五三 一三三 四五七七 四八六 一一八七 一〇一
高山村 四七五 一〇一 二六七 四二 一四三四 一五二 三七二 三二
福岡村 一一三一 二四〇 六三六 九九 三四一三 三六三 八八五 七五
下野村 一三一 二八 七三 一一 三九四 四二 一〇二
上野村 三八三 八一 二一五 三四 一一五四 一二三 三〇〇 二五
坂下村 一四七九 三一四 八二九 一三〇 四四五三 四七三 一一五五 九八
瀬戸村 一六四 三五 九二 一四 四九四 五三 一二八 一一
合計 一二六〇七 二六七六 七〇八七 一一〇七 三九〇二七 四〇四一 九八五八 八八八
高百石当り 一五一 三二 八五 一三 四五八 四八 一一八 一〇