中山道の主な通行

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向伝馬のほか、臨時の加助郷・増助郷がある。前表の如く文久元年(一八六一)孝明天皇の皇妹和宮の降嫁があり、中山道通行は宿方と助郷との協調が破れて紛争をおこし、課役軽減方の愁訴嘆願をするわけであるが、中津川宿における主な通行を次のようにあげることができる。
  (一) 姫宮通行…皇族・公家の姫君が三代将軍家光以下一五代将軍慶喜に至る歴代すべてに一五姫宮(継室を含む)と、水戸家に嫁がれる姫君のほとんどが中山道の通行であった。
  (二) 大名通行…毎年四月が参勤交代期の通行であった。[中津川市岡家文書『御休泊留記』]
  (三) 役人通行…大名たちが幕府役人(京都所司代・長崎奉行・大坂定(城)番・大坂加番・二条御番など)として、その交代者も通行している。
  (四) 日光例幣使…朝廷より日光東照宮の四月大祭に派遣される勅使の通行である。
  (五) 茶壺通行…将軍が年間飲用する茶を、山城国宇治より江戸への道中であって、幕府の権威を示す意図のもとに多くの人馬を徴用した。
  (六) このほか幕府巡見使・天文方役人、松尾芭蕉などを含む俳人・画人・儒者など多くの文人・墨客の通行がある。
 右のうち、文久元年(一八六一)一〇月二九日を中心とする和宮降嫁のための御下向は、中津川宿休泊の前後五日間が空前絶後の大通行となった。各村方文書としても多くの史料が残されており、「前代未聞の大宛(あた)り」の文字を諸記録に見ることができる。助郷人足は中津川宿より三留野宿まで通し継立て、福岡村人馬割当てのみでも、人足九八一人・馬五六疋とあって、通行の規模も桁はずれのものであった。
 このような助郷の過重負担に、助郷の村々は和宮の御降嫁以来一段と疲弊の度を加え、八ヶ村助郷村はもちろんのこと、「田瀬村外一一ヶ村助郷歎願書」[史料編 四一一]にみられるとおり、幕末期ますます助郷歎願も多く、道中奉行・苗木藩・宿場役人方へと交渉し、宿側との対立を深めている。
        (表紙)
 ▲     「御用伝馬録 五」   (抜)
  于時文久三癸亥年(一八六三)、向伝馬多分之大宛り、勿論御上洛ニ付、御供方御役々様方御下向並御変革ニ付、諸家之御当主様並奥様惣て御家族様方、御家中御家族方御登ニ付、広大之御通行ニて助郷必至難渋、迚も此趣ニてハ行々助郷難立行ニ付、八ヶ村役人一同、三月廿三日、安保弘太郎宅(福岡村安保家十一世)え出会相談いたし候、則右出会連中左之通
     日比野村組頭惣右衛門上地村庄屋市岡直助高山付組頭惣次郎
     坂下町組庄屋曽我伊助坂下合郷庄屋吉村佐六上野村庄屋西尾次郎作
     下野村庄屋安保松兵衛当村庄屋大野喜左衛門西尾孫六郎

    右之連中出会、則出府歎願と決定いたし候[史料編 四一一]
 翌二四日には、右の代表四人が苗木の代官へ江戸表出府嘆願の陳情に出向いている。今回の出府嘆願には西尾孫六郎が八ヶ村惣代として依頼されたが、当年六九歳にもなり万事記憶力薄くなって、惣代役が勤まらないことを理由に断っている。四月七日に至り、是迄嘆願について尽力してきたことを代官所でも認めて、よんどころなく「江戸表へ出府嘆願」を引き受けている。
 その後、六月二日新たに数か村が中津川・落合宿当分助郷として加へられた。
 明治維新、幕府は亡びたが、助郷制度はなおしばらく引継がれた。明治新政府駅逓役所は助郷村組み替えを命じ、恵那郡一六か村・加茂郡三七か村・武儀郡四四か村・郡上郡三六か村を中山道落合宿附属に指定した。永い間の助郷苦難から解放されるためには、明治五年頃までなおしばらくの日時が必要であった。