江戸時代はいうまでもなく封建制度の時代である。小農民自立と兵農分離の二大政策がうちだされて以来、農民は土地に結びつけられ、「百姓は土地につき候もの」として、自分自身のためにではなく年貢諸役を負担するために働いた。
当地域における旧四か村は、面積八四平方粁(八、四五〇町歩)の広大な山間地帯にあるが、付知川を挟んで南北に長い地域の七六パーセントが山林を形成している。したがって耕地は元来付知川の沖積によって河岸段丘に点在し、ここに村落が形成されてきたのである。とくに近世以降においては、右のような年貢負担の要請から漸次耕地開発がなされてくるのである。