当地域が山間地帯の農耕であるから、当然その耕地は、水田稲作を主とし、麦その他の雑穀畑作が従であった。田畑の面積比も慶長一四年(一六〇九)福岡村御縄打帳によって比較すると、七分三分で田の方が多く、他の高山村・下野村・田瀬村においても大同少異と推測され、名請人一戸当りの平均所持反別も六反三畝一四歩となり、当地域ではすでに小農自立がほぼ完了していたのではなかろうか。
農民は稲作田を基幹とし畑・山畑なども耕作しながら、その生活を築いていった。
稲の品種は、在来の籾に長い毛や芒(ノギ)のある雑種が栽培されていた。幕末のころには、千石などの早生種や、島坊主・コボレなどの中生種が栽培されるようになる。苗代田は、二毛作以外の湿田を選び、明治三〇年ごろからの短冊苗代ではなくて、田全面に籾を播く方式の平蒔苗代である。種籾を桶に浸水したり、叺(かます)に入れて池に沈めて発芽を待つのである。播種量は、本田一反に対して一斗の籾を標準としたので、近世史料の土地証文に「何斗何升蒔」とあるのは、面積を播種量で表示した。三斗蒔とは三反歩を意味し、時代が幕末になって実際の反当播種量が減少しても、一反歩を一斗蒔と呼ぶ風習は近現代まで通用している。