[二 見聞日記]

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 高山村庄屋は元禄二年(一六八九)に歿した田口又左衛門が佐見村(現加茂郡白川町)から来村して、代々庄屋役を仰せつかり、家号を佐見屋と呼んで高山村中屋中に住居を構えた。五代目庄屋以降は苗字を後藤氏と改姓し、八代目庄屋として一八歳の若さで吉右衛門宅矩が享保一二年庄屋役を勤める。彼は文筆達者をもって在任中のことを『見聞日記』として残してくれた。享保一二年より天明二年までを表紙共に三五一枚四冊分として現存されている。

見聞日記 高山区所蔵

 近世江戸時代に入って以来の農民はこれらの耕地を耕作していくわけであるが、新田開発・田畑直しを続けなければ年貢上納に吉右衛門が困難を強いられる結果となる。田瀬村大萱は明暦元年(一六五五)吉右衛門が上野村より来って、以後寛文一一年頃までに開発し、年貢上納にまで至っている。また天保一〇年高山村百姓伝兵衛等田地の畔直し、しき直しに入用金一五両を藩に願い出て、うち五両を拝借し、一〇年据え置き一〇ヶ年賦の返済をする苦しい耕作状況を窺い知ることができる。