幕末期に至って使用されるようになった干鰯(ほしか)などの肥料ですら、当地域ではとても購うことができず、もっぱら山野の柴草を刈り取った推肥・緑肥・厩肥である。人糞尿はもちろん利用されたが、量に限度があり、主として畑作に使用されたという。したがって、路傍の馬糞も拾い集められる一方、よその便所を借りて用を足したり、他人の田畑へ放尿するような者は、「しんしょ持ちになれぬ」と笑われた。このことは、現代でも戦後間もなくまで小学校の糞尿処理は競争入札によって、かなりの財源になっていたことでもわかる。
山野の草刈りは、「木草(こくさ)取り」「秣(まぐさ)刈り」と呼ばれ、当初は適宜自由に刈り取られたことであろうが、山林の重要性が増し、苗木藩が藩有管理とした「御立山」を指定して住民の立ち入りを禁止するようになって、自由採取が阻まれてくる。山草の採取が百姓にとって不可欠であればあるほど、採草地の利用をめぐって、その利用の期間、採取運搬方法などの規制(村掟)が定められてくる。山の「口明け」と呼ばれる利用時期が定められ、運搬に馬の使用を禁じた「徒歩草入合(かちぐさいれあい)」の規則が生まれる。また、肥し灰のため雑木の「灰焼き」制度も年中行事となって定着するようになる。灰焼きは春一〇日間、秋の一一月ころ一〇日間と定められ、その間「勝手次第に」灰焼きを実施し、春は水田の肥し灰に、秋は麦の肥料に使用された。
このような慣行・規制は、明文化されもしたが、多くは口頭不文律で、違反したものには過料や利用禁止の罰則規定があった。制裁を伴った利用規則は、村自体の結合を強めると同時に、利用に伴ってしばしば紛争を起し、それがまたさらに村の結合を強める結果となった。