農民を土地に拘束することは、その働くことを前提とするものである。それゆえに労働を強制する法令が発せられたことは、第一章の苗木藩の農民政策でみてきたように当然のことである。寛永一九年(一六四二)に耕作をなおざりにして年貢を不沙汰にする不埓な百姓があれば、田地を取りあげ所を追放する。または「未進の百姓どもは、普請一切致す間敷」[見聞記]、ひとり身の百姓が煩って耕作ができなければ、その村一村として互いに助けあって田畑を作付け、年貢を上納すべきことを命じている。天明三年(一七八三)「下野村五人組仕置帳」[史料編 一一〇]では次のように述べている。
▲ 一、朝起きをいたして、朝草を刈り、昼は田畑耕作にかかり、晩には縄をない、俵を編み、何にてもそれぞれの仕事を油断なくすること。
一、男は作をかせぎ、女房は苧機(おはた)をかせぎ、夕なべをし、夫婦ともにかせぐように。されば、みめかたちのよい女房であっても、夫のことをおろそかに存じて、大茶をのみ物詣り遊山好きの女房をば離別せよ。しかし子供が多くあるとか、前に恩を受けた女房ならば格別である。また、みめかたちが悪くても夫の所帯を大切にする女房にはいかにも懇ろにしてやること。
一、一村のうちに、耕作に精を入れ、身持ちをよくいたし、身上よきもの一人あれば、そのまねをすれば、郷中のものみなよく稼ぐものである。身上の成る者は格別、田畑も多く持たず身上の成りかねるものは、子供が多かったならば人にもくれ、また奉公をもさせて、年中口すぎのつもりをよくよく考えるべきである。
昼夜働くことを規定するとともに、もし作に不精で、いたずらに暮す者があれば、五人組のうちで互に吟味をして意見をするように。それを聞かない者があれば庄屋から申し聞かせ、もしそのものを隠しておいたならば、庄屋・与頭・五人組とも曲事(くせごと)に命ずる、といったものである。
百姓は、このように精出して働くべきものであったから、村の「遊日(あそびび)」(農休み)以外には休んではならないことになっていて、年間の休日日数はほとんど変っていない。正月と七月の盆三日間、初午・上巳・端午の節句・祭り・山の子・農休みと村の遊日を決めており、この日は公然と休むことができる。むしろ働いてはいけなかったのであり、遊日以外は働けということでもあったのである。平日の労働日はたばこ休みを一日に四度ときめたこともある。このように百姓に労働を強制し、さまざまの規制を加えることは、百姓の生産によって封建社会の経済的基盤維持の絶対必要条件であった。