村での生活は、衣食住にわたって自給自足で間に合わせることをたてまえとしていた。衣服も手織りであれば、原料の綿の栽培も糸をつむぐ、染めることまでも、履物のぞうり・わらじはもちろん、下駄まで手製で間に合わせることが多かった。しかし、やがて徐々にではあるが、店や他から入込む行商人から物を買い入れることが多くなって、貨幣の魅力が百姓の心をとらえるようになった。もちろん米麦と物々交換されることが多かったであろうが、鍬・鎌などの農具や鍋・釜の生活必需品は、購入しなければならない。貨幣経済の浸透によって、金になる作物の栽培を手掛ける風潮もまた、当然の成りゆきであったであろう。
江戸時代、米麦以外の換金作物を総称して「四木三草」とよび、桑・漆(うるし)・茶・楮(こうぞ)(紙木)を四木とし、麻・藍・紅花を三草としたというが、地方により多少の違いがある。福岡村の慶長検地帳(一六〇九)によれば、
福岡村 茶二畝 桑九束二把 紙木四四束五把
があり、桑や楮は慶長期以前の中世から栽培されていたことが推測される。