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楮は検地帳に「紙木・かみ木・かみぐさ」などと見えているもので小物成として上納を命ぜられ、和紙の原料として重んぜられ売買されたり、借金の担保にされた例を見ることができる。楮はやせ地でもよく生産したから特別な手入れも要らず、山沿い・道ぐろ・田畑の周囲などに放任栽培された。秋の穫り入れ、麦まきの終った初冬のころ、株元から伐り取り三尺周りの束にしたり、樹皮を剥いで乾燥したものを紙すき業者によって和紙に漉かれたりして仲買人により、売買をされている。明和三年(一七六六)藩において買い上げの御大切なる江戸廻し紙荷(杉原紙・半切紙)二九荷は、本来人足にて黒瀬道を運搬する通例であったのを、高山村から蛭川村へ馬六疋で運び、途中和田川土橋を積荷の馬が踏み抜き、紙荷をぬらしたことについて、高山村庄屋が責任を問われ藩の吟味事件に発展するほどであった。(見聞日記)藩はいうに及ばず、村々の庄屋文書など大量の紙が用いられ、長良川上流の美濃紙業地は中世以来全国有数の紙生産がおこなわれていた。
 桑や楮のほか、茶・タバコなども栽培したが、換金の特用作物は、なるべく本畑以外の野畑・畦畔などを利用して栽培するよう指示されていた。