当地域は四ヶ村とも最低部を付知川が貫流している。地形上、大小すべての枝川はそれぞれの井水源をなしながら、この付知川へと流入して、時に集中豪雨等の災害とその復旧に、農民の生活もまた想像できるというものである。井水・川除(よ)け普請(ふしん)について寛延四年(一七五一)『福岡村川普請願書』[史料編 三二二]には「上(植)苗木井水の笹原で、〆て拾四ヶ所にものぼる災害が発生し、人足合計八百八拾人を要するから、御見分の上、人足仰付け下さるよう願い上げる」。また「松嶋大橋落申候、大木板わく木共に残らず流れ申候、先年より下野・上野・福岡三村にて掛けて来候へ共、比度ハ右両村にも水損有之、難儀の筋承りに及び候間、如何様にも当時仮橋を掛け申度存じ奉り候、人足百人程仰せ付け下され候わば、有難く存じ奉り候、右の品々も願の通り仰せ付け下され候わば有難く存じ奉るべく候」と、代官あてに四人の組頭と庄屋が連署して願い出ている。藩では見分役人を廻村させ、所要の人夫を査定して、竣工してから、人夫一人一日米六合ずつの扶持米を支給した。
福岡村では、文化元年(一八〇四)より三か年間にわたり、各所で大がかりな井普請の工事が行われている。判明分だけで五六か所、延人足数五、六〇六人に及んでいる。こうした工事は藩に願い出て実施されたもので、いわゆる領主普請といわれるものであるが、すべての井普請が藩からの扶持米人足や普請用材のみによって行われたわけではなく、「精々手前にて取り繕う」というのが本則で、春の井普請は村々の年中行事とされて、すべて自力で保全修復に多くの労力が注がれた。
用水を新しく開設した記録としては、下野村の本郷井水が初出し元禄七年(一六九四)である。下野村の本郷地区・馬場地区は村のもっとも広範平坦な地でありながら樹木の繁茂した水源を求めることのできない高台のため、必然的に水不足に悩まされてきた。ために村人どうしの水論絶えず、早くから新設を藩庁に願い出ている。藩では見分役人を廻村させて査定し、竣工後扶持米を支給する方式をとられているのが定法であった。古記録に見られる主な町内の用水は左の表に掲げるとおりである。
▲ (高山) 向垣戸井水・知原井水・向知原井水・がまん沢井水・がまん沢新井水・北林用水・だんご立井水・柿ヶ坪井水・北かいと西井水 (下野)御料所井水・本郷井水・小野沢井水・馬場用水
(福岡) 畑尻井水・岡山井水・上苗木井水・宮沢井水・長根井水・長根井口井水・樫原井水・浦上井水・浦下井水・下村井水 (田瀬)狩宿井水・伊達洞井水・上田瀬井水・新井水
右用水のうち、記録が残されていない「馬場用水」について推論を立ててみることにする。
享保年間の初期(一七二〇頃)と推察する。馬場用水の開設者といわれている安保又左衛門は、福岡村町屋安保家より分家して馬場へ移住し一家をなしたが、畑地ばかりで水田耕作は成り立たない。
僅かに東側の湿地帯に天水田が点在するという悪条件の地形であり、住民の水不足を身をもって感じ、用水開設に情熱を注ぐことを決意するのである。地勢上から小野沢谷からの取水を考え、綿密な計画のもとに藩に願い出た。藩方は恐らく以前からも申請がなされたであろうこの取水計画に、難工事をともない藩財政が許されないことと、また馬場の地形上からの有効価値を基準に願いを裁可しなかった。又左衛門は止むを得ず藩の無許可で独力資金を拠出して、困難な用水工事に取り組むことになる。工事関係の記録も伝承も残されていないのは、民衆の希望と努力を認めない幕藩体制維持の然らしむるところであろうと推察される。江戸の町人玉川兄弟の開いた玉川上水や、箱根用水の友野与右衛門の例を見るまでもないことである。付知川対岸の八布施のわずかな伝承に、測量の際夜間に松明で水路を決定したことなどが残っているに過ぎない。延長二〇余丁の完成までには、難工事の数年を要したと思われるがしかし馬場用水が完成して、流量豊かに農民に喜びと希望を与えてくれた又左衛門は、藩命違反の科を以て打首の刑に処せられてしまった。時に享保一一年(一七二六)一〇月一三日。後世(昭和三八年)本郷下大門頭の用水脇に「安保又左衛門頌徳碑」を建て、その功績を偲んでいる。
馬場用水
安保又左衛門頌徳碑