溜池とは、堤(つつみ)のことである。天水や用水の水を堰き止め、一時水を湛える堤防のあることから、溜池全体をつつみと呼んでいる。中世時代の農民の階層には、農業生産力が高まり作付作物の種類も増加してくると、とりわけ水田開発に力を注がれ必然的に用水が不足するようになる。福岡村植苗木の広恵寺堤は早くから構築されたと考えられるが、苗木伝記「広恵寺開基の事」の中に観応元年(一三五〇)「湖水の鮒」と記されてあり、湖とは単なる低湿地だけでなく低いながらも堤を構築して水を溜め利用していた。近世元禄二年(一六八九)「上なへ木、堤、破……」とあって堤が欠壊したので五日間に人足一五八人で修復した記録がある。さらに享保三年(一七一八)「この度、福岡村の彦惣が願い出た広恵寺前の池堤を修覆したので、その褒美として米二石を下し置かれた。これを渡すように」との達し書きが代官へ出されている。この時広恵寺堤の受益面積は四町五反八畝程であった。また、この年、山の田堤においても清十が藩の郡奉行に修復の出願をして、人足一四〇人の人夫賃を貰い、堤の土井嵩上げを完工したが庄屋孫六によって書き留めている。ちなみに記録の残っている溜地を拾うと、上のようである。
▲ 高山村
かきの堤
成道寺新堤
一之瀬堤
福岡村
広恵寺堤
広恵寺前池堤
山の田堤
小池堤
巣山堤
下野村
荒神尾溜地
享保三年 彦惣願出の書状