苗木藩が、藩有財産として管理した山林を「御立山」という。村々のうちの優良林地をお立山に指定して、一般百姓の立ち入りを禁止する方策をとったのである。この藩有林には、山方役人を配置して山林行政を担当させるのであるが、お立山の実際の管理撫育は、それぞれ所在の村々が負担した。「高山村庄屋見聞日記」によると享保一三申春、「山番」の小兵衛、孫十郎は巣おろしを精勤し、「山奉行」を通じて藩より御ほうびを受けたことが記載されている。村々では二人一組の「山番」が設けられ、月に三回ずつ山廻りをして、盗伐・山火事の監視に当たった。その巡視に「御山札」を掛けた場所が「札場(ふだば)」で、現在もそのまま地名として残っている。明和二年三月一五日の夜、御立山の「ふだ場」では桧の皮はぎ事件が起り、早速山番が見つけて村中吟味のために、一五歳より六〇歳迄の者悉く庄屋元へ呼集められた。また女子供に至るまで見聞したことや、その日の行動について厳しく尋ねるという徹底した取調べ方をした。結局この事件の真相・犯人などまったくわからず、この結果を藤田政七代官へ報告している(見聞日記)。
これらの御立山制度(御林・留山などともいう)がいつ設定されたのか、その年代がはっきりしないが、宝暦二年(一七五二)高山村へ「山御法度之事」が代官より発せられている。この中には、四ヶ所の御立山を指定して青木類・松・栗までも停止木として一切伐取りを禁止する旨記載し、山番等は油断なく山廻りを徹底する様命じていること、さらにこの年立木伐荒らしの百姓二人が事実を白状したために、領内追放したことの御触まで出している。
苗木藩仕置法度の慶安二年(一六四九)に「高山・柏原両御巣鷹山……」の文字が見える(前出)が、御巣山は御立山に含まれ、以後新たに追加設定されたのであろう。したがって、領内全体では御立山指定は後期に至る程多く、元治元年(一八六四)「御立山御払代金覚帳」では、領内二三か村八一か所の御立山、金二、八二四両余に及んでいる。このように御立山制度によって、藩財政に寄与するところ大であったかをうかがい知ることができる。
御立山(現在の岩山)遠景