山林は古代より「山川藪沢(そうたく)は公私これを共にす」とあったように、付近の村民の立入り自由な山林であった。このような開放林は中世以降も明確な規定はなく、旧来の慣行が容認されるという形で受け継がれてきた。幕藩体制が確立して、山林にも領主権がのびて、御巣山・御立山制度が設けられるようになると、田畑の年貢上納のためにも田畑に見合った林野を秣場、生活資材を採取させるため平山(ひらやま)(惣(そう)山)を百姓に与える制度をとってくるのである。
平山は村持ちとして維持管理され、村々によって規約を定め場所・時期を定めて薪炭採草に紛争が起こらないよう図ったが、ヒノキ・サワラ・クリ・マツ・ケヤキなどは留木として伐採を許可制にするなど藩が制限を加えた運営をさせた。
平山のほか、村方には百姓持山という個人持ちの山林や、中世からの慣習上の権利にもとづいて、近辺の村が一定の約束によって柴・秣を集団的に採取することのできる入会(いりあい)山があった。元禄一二年(一六九九)の「村方百姓林立停止触状」では、
・村方百姓面々が林を立てているが、今後停止するよう申しつける。
・今までの持林の木は、その持主に与えるから早速伐れ、伐った跡地は草山にせよ。草山に不向きの所は惣百姓の林とせよ。
・入会の草山は、少しも囲山(利用・使用に制限を加える山)にしてはいけない。
・木草(こくさ)山を個人別に囲ってきた村も、自今以後囲山にしてはいけない。
と示達していることからも、個人持山を設けていた実態がうかがわれる。明治五年「田瀬村柴取数覚帳」によると、下横平山へ八人、前平山へ八人、田瀬坂山へ十五人、五月晦日より六月に亘って惣〆三千百九拾三把の柴草を持山と惣山から刈取っている。高山村若山は惣山になっていたが延享元年(一七四四)になると、「日比野村から山の口明け前に木草取りに参り候に付吟味の事」と代官宛書状を提出しており、またそれ以前の元文三年(一七三八)頃までは、日比野村より俵など持って柴を盗みに入り「りょうぶ」の葉で擬装して持ち帰るなど至極不埓なことが続いたと見聞日記に見えている。嘉永二年(一八四九)四月になると馬四〇頭に柴を積んで帰る始末になり、両村方役の交渉あるいは代官の仲裁を待って紛争の処理をしている。