林産物

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東濃一帯のすぐれた山林が、裏木曽・恵那山・七宗山とそのほとんどを尾張藩に占められ、これを「御留(とめ)山」として材木奉行の統制下におき、伐採を禁止する政策をとったり、樹木も停止木として木曽五木を指定するのである。慶長一五年(一六一〇)福岡村東山などにより駿府城普請用材として桧大小三千本を苗木藩を通じて搬出しており、良材の産地である当地域へ強い需要が寄せられた。
 杣・木挽・炭焼など山仕事は百姓仕事に次ぐ重要な生活の糧であった。伐木(サキヤマ)は杣の最も大事な仕事であり、鋸よりも斧(ヨキ)を使っての伐り倒しで行われた。立木の根元に三方から斧を入れて三つの脚を残して最後に一つを伐り離すという倒し方は製品価値を高める専門業であった。伐木現場での製材は木挽の仕事である。木挽職人は幅の広い大鋸を用いて板に挽くという根気のいる作業が続くのである。斧を使用した「ハツリ」角材や板は、馬で中野方村を経由して黒瀬へ輸送することもあった。享保一七年(一七三二)福岡村彌七郎は苗木藩御用商人として、明桧(あすひ)・〓(さわら)など三百本余りを江戸廻し御用木を藩より仰せつけられ、桑名まで送り届ける証文を提出している[史料編 二三九]。

彌七郎江戸御用木送状

 燃料・採暖用としての薪炭の消費は建築用材をはるかに上廻るおびただしい量であったことが想像される。薪はマキ・センバ・もやなどと呼ばれ、主として堅木(かなぎ)・雑木(ぞうき)が大部分を占めていた。また、これらを焼成して目方も軽くなった炭は、荷駄効率がよく最大の移出林産物であった。苗木藩江戸藩邸で使用する「御用炭」を領村から「江戸廻し炭」といって、「煽(あぶり)炭」(おこし炭)を多量に藩用に焼かせた。「高山村御用炭焼につき届書」[史料編 二九九]では、幕末期に藩直営の銅山精錬用の御用炭を高山村樫巣御立山へ仰せつけられ、林地の境界、木品、焼成中の見廻りなどの見分が細かになされている。このほか葺板・柿板などの屋根葺材料、採光用の灯(あかし)松、茸札(きのこ)の入山料は、藩の定法小物成として各村から藩台所へ連年納められていた。
 苗木藩直営の氷餅屋による特産品がある。苗木高峰山では夏の保存食「氷餅」の製造をしていたが、享保八年(一七二三)になると、福岡村二ツ森へ移された。製造場所の移転については、餅を凍らせるための絶対条件その他製造過程での適地であったことが考えられる。
  ▲    御立山之覚
   福岡村二ツ森山御氷餅屋え御かこい御立山、東西南北拾弐町四方御改之上、御立被遊福岡村え御預ケ奉畏候 諸木ハ不及申 火之用心等堅吟味可仕候 以上
 右は氷餅屋を福岡村へ移転するに当り、御立山として村役人に預けることの請書である。二ツ森山頂下の場に氷餅の井戸堀人足、此所へ至る道作り人足、開設後の製造人足、運搬など福岡村役人を始め、下野村・高山村・上野村・田瀬村・坂下筋まで割当て出役として、明治維新に至るまで続けられるのである。苗木藩名物として幕府への献上品のほか、藩の財源で商品化までの経営がなされていた。

天王社に保管の氷餅の木版 市岡利一所蔵


福岡村庄屋孫六が苗木藩に提出した覚書