御払山

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藩が立木のまま払い下げることを「御払山」という。御立山の制度以来、藩所有林を村方からの願い出によってその村に払い下げられている。苗木藩では山林に財源を求めているから、橋や公共の建築材として立木のみを申請により払い下げることは行われてきたが、有償の払い下げは明治維新またはその直前のことである。
 村内や、近郷の御立山が、御払山や藩自身が伐り出しとなれば、元締・杣・木挽など山仕事を生業とする者はもとより日傭・川下げ人足に至るまで、村方百姓など大勢の現金収入に繋がった。文政一二年(一八二九)神土村新巣御立山が皆伐され、出材支配方元締には、福岡村長瀬栄蔵・神戸村神戸弥助・同庄屋権八等五人が任命されたが[東白川村史史料編]、神戸村庄屋は元締に任命された御礼として、家老以下藩役人二二人に、それぞれ酒一~二升、目の下二尺あまりの塩ぼら二~三尾、結城縞一~二反ずつを持参し、挨拶に出向いている。ちなみに、この「御仕出し御運上」は、「〆一万両程納め申し候」と、翌天保元年の記録に見られる。慶応三年(一八六七)田瀬村組頭忠三郎は先々代より三〇年間に亘り庄屋役を三人が勤役し、上納金五拾両を引受けたが不払いの儘、家計難渋に至って、田畑家財等売払うも不幸続き、後家二人、娘二人が残され不足上納金は伊達洞山を「上げ林」として帳消しにされ「重々難有仕合奉存候」となる。しかし元治元年(一八六四)伊達洞山を四拾五両にて御払山になるに及んで、さきの上げ林冥加金を以って忠三郎へ払下げになるよう他の組頭・庄屋連署の願書を提出するのである。
 幕末期、苗木藩の借財はすでに、四万両を越えており、藩財政難への苦肉の策として、慶応四年の記録に「今般御仕法ニ付[御立山御払]か所」とあって[史料編 一九六]を参照されたい。
▲    田瀬村
 一、下小路上小路谷上之内  壱山
    右ハ諸木尺五寸廻り以上、かな木共御払
 一、狩宿御立山       壱山
    右ハ諸木四寸廻り以上御払
     福岡村
 一、岩須御立山之内  獺之沢辺より上野村御預り境迄
    右ハ諸木尺五寸廻り以上御払
 一、二ツ森御鞘立      壱山
    右同断
 一、作蔵林御立山      壱山
    右ハ諸木地所共御払
     高山村
 一、与右衛門立替      壱山
    右ハ諸木尺五寸廻り以上御払
        (後略)
 領内村々の御立山のすべてに亘って、あるいは地所共、あるいは良材・停止木までも御払いすることは、藩の財政事情が最早行き詰まっていることを物語っているものである。