筏に組んで流送する以前、元山から伐り出した材木は、谷に沿って狩り下げられ、付知川へと運材された。さらに木曽川へ出た材木は八百津錦織綱場(にしごおりつなば)に留められる。上流では水量が足りなかったり急流であるため、筏流しはできず、「管流し」とよぶ材木一本流しの方法で川を下した。すなわち伐木・木寄・小谷狩・大川狩・綱場と一貫した作業全体を「川下げ」「川狩」といった。
川狩りが行われる時期は、川の水位が安定する秋から春までの間に木材を川入りされる。川入りされた木材は、川狩り人夫(日用=日傭)によって、順々に川下へと流される。岸の岩に閊(つか)えたり浅瀬に乗り上げる材木を、中流へ突き出したり、水流の乏しい箇所では、川に堰(せき)[ませともいう]をつくって一旦材木を貯(た)め水流を誘導しながら流された。川入れされる一回分の材木を、「一川(ひとかわ)」といって、川狩りの先頭を「木先(きさき)」、最後尾を「木尻(きじり)」といった。
付知川上流には、広大な尾張藩「御留山」があり、その「御林」から伐り出された「尾州材」は、「尾張様御用材」として、付知川を川狩りされた。尾州材は数量が多く毎年行われ、「苗木藩御立山材」は付知川の閑散な時期に割り込んで川狩りされることになる。この時は「二川」分の川狩りとなって「相川」という。川狩りの木材には、一本一本に「切判(きりはん)」とよぶ斧で彫った「符牒」や、鉄印で木口に打ち込んだ「極印」を目印しにして、混じり合った「合川」の材木が選別できた。
[史料編 三五五]は宝永三年(一七〇六)高山村より (一)川狩り人足の賃銀値上げのこと (二)川狩り人足数の割付け変更のこと、について願状が出されたので、福岡村からは、従来実施されてきた川狩り人足とその割符などについて、由来と経過の概要を掲げたものである。
▲ 一、福岡村における川狩り人足割符の最初は、慶長一五年、駿府城御用木を福岡村中山(東山カ)より伐り出された時は、松末口大小共に三月から九月迄にわたって川狩人足として、福岡村四五人、日比野村四五人、高山村二〇人、〆一一〇人宛毎日出役した事
一、寛永一六年、福岡村中山から江戸城本丸の用木として三月より八月迄かかって山出し、付知川広瀬より川下しを始める。福岡村・高山村・日比野村〆て一一〇人宛が九月一八日より木曽川出合いの津戸まで川狩りをした事
一、付知村より福岡村は専任の人足が川狩りをした事
一、苗木藩の右三ヶ村は川狩り方法(川なみの作法)について、尾州藩加子母村・付知村に尋ね、出役人足数も教えをうけている事
一、寛文一三年、福岡村柏原山より高野山用材、寛文九年の奈良大仏殿用材などそれぞれ川狩りを行ったが、方法・人足割符とも申し分のなかった事
一、苗木藩よりの注文木川狩りについても支障なく実施してきた事
以上の経過等を書き上げて藩奉行に口上書を出願している。