酒屋は酒造り、酒造業のことである。近世の後半になると福岡・田瀬・高山とも酒屋が出現してくる。酒屋を営むには、先ず酒米入手が容易であることが条件であるが、これがための背景にはそれなりに理由があった。この時代から年貢米の大部分は村の郷蔵に納められ、村々では蔵米を売り捌いてその代金を金納しなければならない。このため「高山村御蔵米払方金銀請取」[史料編 二二〇]のごとく、酒造営業が許可されている。飯米が過剰でもなかった領内事情で、やっと酒造を可能とすることができた。
福岡村安保彌七郎は寛保元年(一七四一)、酒造営業を組頭・庄屋連署の上出願している。酒株・酒道具・酒蔵などを苗木鈴木喜左衛門から代金三〇両で譲り受け、代々酒屋を営業していく。幕府は酒造業に対し特にきびしい統制を布き、明暦三年(一六五七)以来全国の酒造株を定めて、この株所有者以外には営業を認めなかった。この基本線は、その後多少の変遷はあったが、営業を始めようとすれば、他の株所有者から譲り受けなければならなかった。
享和三年(一八〇三)苗木領内庄屋に示した「酒造取締り御触状」によると、今迄の酒造高、酒造株とも、増減勝手な振舞いが多く見受けられるので厳重に取締る旨の通達を出している。福岡村棚田大野善左衛門は、文政六年(一八二三)より三か年間、手間不足など都合悪く酒造高の半減を願い出で、苗木藩から許可されており、またこのころ安保家も酒造株半減の許可がなされている。
福岡村篠(すず)田屋は文政一一年(一八二八)、付知村酒屋松兵衛に譲渡していた酒造株などを、長瀬幸右衛門の代に至り代金一〇〇両をもって買戻して酒造りを再興しているが、翌年には苗木町組へ長瀬皆平を分家させて、大黒屋として酒造り営業を存続するが、酒造米割当不足や「酒売切れ」などの理由から中津川より移入しており、また本家篠田屋へ酒造の一切を引渡すことになる。