諸職

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明治五年三月(一八七二)村明細帳により諸職人を示すと、次のようでこれらの諸職を営むには、運上金を納め、藩の許可が必要であった。
表13
町村別 田瀬村 福岡村 高山村
職人 一九 二九 二〇
酒屋
鍛冶
紙漉
紺屋
黒鍬
桶工
指物師
木挽
大工 一二
板批
左官
石工

 右の諸職人のほとんどが、「農間職業ニ御座候」と但し書きがあるように、兼業であったことは容易に想像される。
 鍛冶職人は宝永二年(一七〇五)越前の鍛冶善兵衛が弟子三名を伴い、毎年福岡村へ入り鍛冶している。そのために必要な「旦那寺之請状取進之候」と宗門地請証文を提出して、農作業の用具(鍬・鋤)調達に貢献したものであろう。「カジヤ」の家号が残っており、あるいは「カジヤ垣戸」の地名は、この時代以降における鍛冶業との関係する伝承のものである。
 木地屋職人のこと。寛延二年(一七四九)柏原山[史料編 三〇三]において、とちの木・まき・ぶな・朴の木の木地細工を職とした善七郎父子は、安保宇右衛門の斡旋によりロクロ師として、用材を確保しながら近辺の村々を漂泊している。
 焼物(陶器)も僅かながら生産されていた。苗木神明神社から福岡村里正(庄屋)大野安兵衛宛に、祭礼用器物の注文書[史料編 三〇七]が届けられている事実を見ることができる。江戸後期より明治初年まで生産され、松島川上流の福岡「水返(かえし)」地内に小規模ながら窯跡が発見されており、数多くの匣鉢破片が散乱している。
 この地域の石工は、信州高遠[長野県高遠町]から出稼ぎである。もっとも宝永五年(一七〇八)福岡榊山神社の鳥居は「石匠泉州森彦兵衛」と刻され、苗木藩領は泉州石工に学んだ者が多いようであるが、江戸後期には高遠石工が数多く進出して、すぐれた作品を残している。
 ▲    高山村三十三番観音石仏立候事
  一、宝暦二(一七五二)申年より思ひ立、七たい切ル、石屋高遠長蔵と申者ニきらセ申候、夫より和泉石屋四郎兵衛ニ夫より段々きらセ、宝暦十一巳年迄ニ不残出来申候、巳年ハ、公方様御穏便百日余、十一月迄ニて御座候故差延置、宝暦十二壬午四月廿三日吉日ニ付て御目明仕候、天気能参詣之者も千四百人程有之候得共、酒酔壱人不出来、殊之外成上首尾ニ御座候、僧衆御出之方、片岡寺一三和尚、法界寺、宝林寺、雲林寺和尚ハまねき不申候ニ付、御使僧として、しゆだく坊・祇首座(ししゅそ)右両僧御出被成候、岩松寺現住翁首座、福岡村ニて、はち・つゝミ借り、はち之役[祇首座しゆだく]、つゝミ之役[法界寺宝林寺]、いのふ(維納)の役岩松寺、他村より仏きしん、本尊ハ田瀬村吉村弥十郎、一番壱たいハ苗木土屋与次兵衛殿、又壱たい蛭川村幸纈幾右衛門、又一たい下の村ごせなべ、四たい他村より寄進有之、残ハ村方ニて出来申候、初メ候より十一ヶ年ニ成候得共、何之しつもなく首尾能、目明迄相済、大施主吉右衛門大慶不過之候、音右衛門・曾七両人之者出精仕、村方すゝ免米集り、それニて仏八たい出来、きどく成志之者ニ候、諸事委細之義帳面ニ仕立、残所なく書記し証文箱之内え入置申候
   宝暦十二(一七六二)壬午四月        庄屋日記より(高山区所蔵)
 高遠石工の美濃出稼ぎ情況を「石切目附甚五右衛門手控帖」で見ると、高遠石工が東濃各地にくまなく入り込んでいるが、苗木・岩村など城下町には見あたらない。これは、高遠藩の施策とも考えられ、城下だけはさけたと思われる。美濃から一番遠い片倉からの出稼ぎが最も多く、権兵衛峠・清内路を越えて東濃へ入り、特に恵北から加茂の飛騨路へかけてが片倉石工の稼ぎ場であった。文久二年(一八六一)の美濃出稼総数は三一人で、内一八人が片倉村からである(高遠町誌高遠の石仏)。
表14 藤沢郷各村石切人員表(石切目附甚五右衛門手控帖)
年次 弘化二年 嘉永三年 嘉永五年
村名
片倉村  76  78  76
御堂垣外村  20(作間3)  20(作間3)  18
松倉村  11  11  12
水上村  13  13  11
荒町村  11  10   8
北原村  18  18  18
台村  11  11  15
栗田村   5   6   5
四日市場村   5  6   4
中村  4   4  13
黒沢村  13  14  11
中村  20(作間3)  23  19
板山村  7(作間3)  8   8
弥村   5   6   6
野笹村  15   9  11
的場村  5  4  4
板町村  2   2  ―
合計 241(作間3) 243(作間3) 239(作間3)


高山村三十三番観音 西組