黒瀬道

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近世以前の「木曽川西古道」とほぼ同じルートを高山村まで通ずる道で、木曽川を川舟で遡航して黒瀬湊が「黒瀬道」の出発点・最終点である。現在の八百津橋北詰に在り、東濃における重要な物質の集散地であった。黒瀬はその後背地として信州木曽、東濃一帯を控え、一部飛騨南部も含まれた。
 黒瀬は、『濃陽徇行記』に「商家多く繁昌なる湊也」と書かれているように、中世以降木曽川の水運が開けるとその船付場として栄え、下流の犬山・笠松・一宮・桑名などとの間を往き来する舟を「黒瀬船」と呼んだ。苗木藩の江戸廻米は黒瀬湊から船で桑名へ運んで江戸へ回漕された、領内住民の生活必需物資(特に塩・海産物)も、ここに陸揚げして馬で、「黒瀬街道」を各村々へ運ばれた。
 苗木藩城下町からの黒瀬街道主なルートは、後述の飛騨街道との分岐点並松(なんまつ)(日比野村)を基点とする。ここには正面に「右ハひだ道 南無阿弥陀佛 左ハくろぜ道」、左側面に「天明三(一七八三)癸卯年四月吉日」と刻んだ名号塔が道標とされていた。現在は国道二五七に近い(元北恵那鉄道並松駅南東一五〇メートル)地点へ移されている。街道はまもなく付知川を渡る。文化二年(一八〇五)初めて高山橋が架けられるが、丸草川から上り坂を地蔵尊と「くろぜみち」道標に至り、遠の巣古戦場地帯、鉄砲池より八本木道標を経て蛭川村に入る。「たがみ峠」を越えれば中野方村であるが、峠は今は山道となって殆ど通行者はないけれど、本街道であり石積みの塚がある。中野方村を出るとふたたび坂折峠・中峠・福地峠の三つの峠を越えて福地村に入る。長曽橋を渡れば尾張領久田見村になるので、領界に近い長曽から木曽川べりを一里足らずして細目村黒瀬に着く。この街道は苗木藩の主要街道で、領主も西上の道として利用し、また幕府の巡視使もこの街道を通って領内へ入るのが通常の経路であった。一方、物資輸送のほかに軍事目的の意味から、道幅は四尺二寸(約一、三メートル)に制限されていたといわれるが、ところどころに並木もあった。

並松の名号塔