飛騨街道

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正保の国絵図、元禄八年(一六九五)飛騨国絵図など江戸時代に作成された国絵図には、主要な交通路として飛騨街道が描かれている。
 ▲ 中津川(山村領高一三三四石余) 駒場(千村領村高七七二石余)―上地の渡し―上地(苗木領 村高九五石余)―日比野(苗木領 村高九九九石余)―福岡(苗木領 村高七四五石余)―下野(幕領 村高三九六石余)―田瀬(苗木領 村高二二九石余)―付知(尾張領 村高二八四石余)…〈後略〉
 
里程については、飛騨から記載されたものに『飛州史』がある。
 ▲ 同至(高山)于濃州苗木城行程廿一里也高山ヨリ御厩野ヘ十五里御厩野ヨリ濃州小郷半里小郷ヨリ加子母ヘ二里付知ヘ一里付知ヨリ田瀬ヘ二里田瀬ヨリ下野ヘ一里下野ヨリ福岡ヘ一里福岡ヨリ苗木城ヘ二里(中略)苗木ヨリ中津川ヘ一里(後略)
この街道の成立は明らかでないが、一般の脇街道と同じように、自然発生的に踏み分け道として開かれたのであろう。
 承応三年(一六五四)作成の「苗木領道程改帳」[史料編 三五四]には苗木城を基点として、領内各村に至る里程を記しているが、道幅、板橋など詳細に記載しており、飛騨街道の状況を知ることができるので、関係分を揚げる。
 ▲     (中略)
  一、城より尾張領、付知村堺、田瀬村〓(きつつき)沢まて、四里三町
    一、城より福岡村迄、壱里弐拾八町四拾五間
     一、関戸板橋、長四間弐尺、広壱間、深橋下弐間
     一、坂、壱町拾間
     一、松嶋板橋、長四間五尺、広七尺、深橋下弐間
    一、福岡村より下野村迄、三拾町三拾六間、道広三尺四尺
     一、長根板橋、長六間、広七尺五寸、深橋下弐間三尺
     一、坂、四町四拾八間
    一、下野村より田瀬村迄、壱里四町四拾壱間、道広三尺四尺
     一、坂上、三町弐間
     一、板橋、長三間四尺、広四尺、深橋下八尺
     一、坂、三町四拾間
     一、板橋、長弐間、広壱間、深橋下五尺
     一、南宮橋、長六間、広壱間、深橋下
     一、横川歩渡り、広八間半
     一、〓沢
       (後略)
 以上旧村の最も重要な役割を果たした「黒瀬街道」(くろぜ道)「飛騨街道」(ひだ道)は、『本街道』ともいわれて住民にまで親しまれてきたが、旧村にはそれぞれ「苗木道」「木曽道」など脇道を道標により知ることができる。
 恵那郡史には一里塚についてつぎのように記されている。
 ▲ (略)……中津川より分れて北するものは、木曽川を越えて苗木城下に至り、飛騨に入る。金森氏飛騨領国の頃は江戸道とて、冬季は御厩野口より此の道筋を中津川へ出たのである。同道筋石塊積みの一里塚[苗木及び福岡地方]の残存するを見る。蓋し苗木藩の営設するところであろう。
 いま、旧道並松界の元関所辺りに石塊積みした形跡があるが、それが一里塚であろう。

赤羽根道標