▲ 御見分御請書之事
一、当村御預り下野村道御並木之内木品 | 桧弐尺五寸廻りより三尺廻り迄 | 元木拾七本 |
一、同村御預り高山村道御並木之内木品 | 桧弐尺五寸廻り | 元木三本 |
松四尺五寸廻りより五尺廻り迄 | 元木七本 |
(中略)
右之通り、今般御見分積御見分之上、御木口印入被成御改候処、相違無御座候(以下略)
右は、弘化四年(一八四七)福岡村の預り並木について、下野村道・高山村道などの並木の一部が、村役人に払い下げられたとき、藩の立会い検査を請けたものである。
付知川をはじめ、この川へ流れこむ支流には多くの橋が必要となる。主な橋を挙げると、知原橋・丸草橋・関戸橋・松嶋橋・長根橋・南宮橋・横川橋などである。これらの橋のうち、付知川や川幅の広い処は、永い間渡渉または馬で渉った。黒瀬街道道筋の高山橋近くには「馬越場」と呼ばれる浅瀬が今も残っている。したがってこの付知川は雨が降って水嵩が増すと交通がとだえ、また厳しい冬の渡渉には随分苦しいものであった。知原橋(高山橋ともいう)が初めて架橋されたのは文化二年(一八〇五)で、この年の橋供養塔が左岸に建てられている(橋はこの後、数回に亘り流失し現在七回目の橋に至っている)。流失に至らないまでも、橋の修復について度々苦難の道を歩んだことであろう。安政三年(一八五六)の「知原橋修復願書」[史料編 三六七]では、藩に前回以上の借入金ならびに南宮神社林・御立山から杉・桧・欅の下付を願い出たものである。享保一四年(一七二九)飛騨街道筋では「福岡村長根橋・松島橋の修復にあたり、福岡村が下野村・上野村へ、人足一二〇人の出役を依頼」[史料編 三五七]しており、常時人馬の通行が可能となる板橋の架橋、修復は経費捻出・人足調達などに至るまで、各村々の負担が莫大であったことを容易に想像することができる。
知原橋の供養塔