並木と橋

112 ~ 113 / 126ページ
苗木藩は、宝暦二年(一七五二)くろぜ道、ひだ道の両脇一間通りに、松・杉・桧などを並木として植えさせた。この並木は、一朝事あるときは伐り倒して防備の材に、あるいは、土木資材に用いたものであるが、冬季には風雪をしのぎ、夏の炎暑をやわらげて人馬通行をたすける目的でもあった。したがって、道筋に松や青木類の欠けたところは補植し、田畠に支障ある箇所は見合わせるなどの並木育成を図った。
 ▲    御見分御請書之事
  一、当村御預り下野村道御並木之内木品桧弐尺五寸廻りより三尺廻り迄元木拾七本
  一、同村御預り高山村道御並木之内木品桧弐尺五寸廻り元木三本
松四尺五寸廻りより五尺廻り迄元木七本

         (中略)
   右之通り、今般御見分積御見分之上、御木口印入被成御改候処、相違無御座候(以下略)
右は、弘化四年(一八四七)福岡村の預り並木について、下野村道・高山村道などの並木の一部が、村役人に払い下げられたとき、藩の立会い検査を請けたものである。
 付知川をはじめ、この川へ流れこむ支流には多くの橋が必要となる。主な橋を挙げると、知原橋・丸草橋・関戸橋・松嶋橋・長根橋・南宮橋・横川橋などである。これらの橋のうち、付知川や川幅の広い処は、永い間渡渉または馬で渉った。黒瀬街道道筋の高山橋近くには「馬越場」と呼ばれる浅瀬が今も残っている。したがってこの付知川は雨が降って水嵩が増すと交通がとだえ、また厳しい冬の渡渉には随分苦しいものであった。知原橋(高山橋ともいう)が初めて架橋されたのは文化二年(一八〇五)で、この年の橋供養塔が左岸に建てられている(橋はこの後、数回に亘り流失し現在七回目の橋に至っている)。流失に至らないまでも、橋の修復について度々苦難の道を歩んだことであろう。安政三年(一八五六)の「知原橋修復願書」[史料編 三六七]では、藩に前回以上の借入金ならびに南宮神社林・御立山から杉・桧・欅の下付を願い出たものである。享保一四年(一七二九)飛騨街道筋では「福岡村長根橋・松島橋の修復にあたり、福岡村が下野村・上野村へ、人足一二〇人の出役を依頼」[史料編 三五七]しており、常時人馬の通行が可能となる板橋の架橋、修復は経費捻出・人足調達などに至るまで、各村々の負担が莫大であったことを容易に想像することができる。

知原橋の供養塔