行旅

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当時の旅行を考えるとき、所用の場合を除き信仰を抜きにすることはできない。これは旅行に出る理由を信心のためとすれば、容易に出掛けられたことと、その訪れる名勝旧跡は神社仏閣が中心であったからである。
 当時の旅は途中で病んだり死んだりする人も多く、庶民の一人旅の宿泊は禁じられていたが、慶安二年(一六四九)に一宿一泊が許された。その後「…旅人に二夜共泊り候ハバ町中相改の慥に無之者一切留置申候…」と、延宝二年(一六七四)道中奉行の布達が出て、二夜以上の宿泊をした者があれば領主に届けることを義務付けているが、貞享四年(一六八七)七月、道中奉行から「…壱人旅人ニハ宿貸し不申様ニ相聞ヘ不届ニ候…」と、一人旅でも宿泊させるよう触を出している。旅行中の宿泊で見知らぬ者との相部屋や、病気に罹るなど困難なことが多く、水杯(さかずき)をして出発したほどである。ついで元禄元年(一六八八)行路病者には投薬をしたうえ奉行に報告させ、死亡した時には、検屍のうえ鄭重に埋葬させることを宿村に義務づけた。村や講の代参人として旅に出る者も、貯えがなければ小遣銭などを借金して代参し、帰参後村方残らず対面して報告をしている。天保年間に、伊勢・秋葉・豊川・洲原・金毘羅・善光寺などの講中参りに出立しているが、旅の苦難の様子記事が見られない。