旅に出る時は、先々の村役人や関所役人など宛の、旦那寺の寺請証文・庄屋の発行する次のような内容の「往来手形」を携行しなければならなかった。①生れた国・村名と身分 ②旅行先と目的 ③関所の通行願い ④病気や死亡したときの処置などの旅行証明書であった[史料編 三六二]。
▲ 恐れ乍ら願い上げ奉り候(読みくだし)
禅宗当申ニ三拾三歳 米蔵
(同人妻)
同宗 弐拾九歳 きん
右者当村片岡寺の旦那
右者、当村五人組頭喜助組下・米蔵並びに妻、幼年の節願を立て、勿論此の節病身につき、讃州金毘羅大権現並びに西国三拾三所観音へ参詣仕り度き旨願い上げ奉り候之に依り、往来之御証文願い上げ奉り候、右願い之通り仰せ付けられ下だし置かれ候わば、有難き仕合せに存じ上げ奉り候 以上
文政七(一八二四)甲申年九月十五日 定使金右衛門
右は、藩代官に福岡村の庄屋・組頭連署をもって、米蔵夫婦の往来手形を発行されるよう申請した願書である。後期になると普通は村庄屋が発行したが、夫婦が西国から金毘羅への旅行となるとかなりの費用を要し、経済的に余裕のある階層の者であり、村内でもごく限られたものであろうと思われる。往来手形は、特定の関所へ宛てられるものではなく、その通路に当たる国々・所々の諸役人へ宛てた身分証明書のことである。当時の旅行は長期にわたり、生涯の生き別れとなることもあったので、手形文面には、『何方で死にましょうとも、当方へ御報らせには及びません。其の処御地の御作法によって死骸の始末をして下さい』と書き添えるのが慣わしであった。