近世封建社会のもと、村での生活は殆んどが自給自足を原則としていた。食料はもちろん、衣服も手織で間に合わせるため棉を栽培して糸をつむぎ、履物の草履・草鞋のほか、下駄までも手製で間に合わせることが多かった。さらに、自家生産以外の豆腐・こんにゃく・油などは近隣で共同作業をするなど互いに補う方式が普通であった。しかし都市における商工業の発達は、やがて徐々にではあったが、次第に農山村経済にも影響を与え、店や他村からの行商人から買入れることが多くなって、貨幣の魅力が百姓の心をとらえるようになり、農民の経済生活は年貢米上納と絡んで複雑さを増してくるわけである。
物資がどのように移入されたか、具体的な記録はないが、工業の発達(前述)で見たように宝永・宝暦のころ越前・飛州鍛冶の職人が福岡村・高山などへ「村入り」して鋤鍬・刃物などの営業を始める者が多かったであろう。また藩役人接待時の物品・食品の記録、結婚祝儀受納帳、高山村倹約請書等から、予想外な高級魚介類が当地域までも移入されていることが知られる。