黒瀬湊(くろぜみなと)

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商人達にとって、黒瀬街道は商売上の重要な物資の搬入路であり、その拠点である黒瀬湊は木曽川遡航の終着点であった。但し黒瀬湊の近くには、天正五年(一五七七)兼山城主森武蔵守長可が、兼山村発展のため海魚店・塩問屋などの魚屋町をつくり、兼山湊として六斎市が立つまでに発展することになる。寛政年間の黒瀬湊の繁昌ぶりを『濃州徇行記』では「煙草・炭・薪・板類・糸・木紙・塩・味噌・竹の皮・材木・白木など万(よろず)商物が多くて、木紙は近辺苗木領・信濃より買い岐阜・上有知(こうずち)へ売り、材木・白木・板類・炭・薪は苗木領・近村から買い寄せ名古屋・笠松・桑名方面へ送り、又、塩は名古屋・四日市・桑名あたりから買いよせ隣村・苗木領へ売り捌いた」と述べ、ここでは近村の商売物のほか、苗木領から来る背負物や馬荷物など船積みして木曽川を下る便で、「湊町並にぎわしく見えたり。」と書かれている。

黒瀬湊跡地