問屋

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安永三年(一七七四)飛騨街道筋の付知村では、五か坂下村の米荷物等を継立する問屋を設置したいと、尾州役所へ願い出た。田瀬村の庄屋三郎左衛門は、この問屋設置を内聞して福岡村庄屋藤九郎に方策を講じようと連絡している。もともと街道筋の荷駄賃稼ぎは村々の大きな収入源であるから、苗木藩の取り計らいによって従前通り荷物の中継が存続できるよう働きかけを願い出ている。
 福岡村の問屋は飛騨屋にあって運輸業を営み、馬方荷物の中継をした。黒瀬街道筋の問屋は代々苗木藩の御用を勤め、江戸廻米の輸送・中継ぎを営んでいた。苗木藩では黒瀬・飛騨両街道の人馬継立賃銭を決めていた。馬には、本馬(ほんま)と軽尻(からじり)の別があった。本馬は一駄四〇貫(一五〇kg)の荷を着け本荷とも呼んだ。軽尻は荷なしで人を乗せた馬のことだが、荷ならば、二〇貫まで軽尻の扱いとした。寛文五年(一六六五)苗木藩の定めた駄賃は、一里につき本馬四八文・軽尻三二文・人足二四文である。この基準は「軽尻本馬の三ツ割二分、人足本馬の二ツ割一分」で、今の三分の二であり二分の一のことである。当時幕府が定めていた中山道「元賃銭」[公定駄賃]の、本馬四二文に比べると六文高いが、そのぶん、領内の道路事情が斟酌されたのであろう。なお人足の持つ挟箱[着物・用具を中に入れ、人足が棒をとおして担いだ箱]は、一荷四貫匁と定められていた。この基準で「苗木領内道法並駄賃帳」が作られ、領内に示達されていた[史料編 三六〇]。
 左に寛政一〇年(一七九八)の関係分を掲げる。
一、上地船場より上町辻迄拾六町三拾間    本馬弐拾弐文軽尻拾五文
一、上町辻より高山知原迄三拾四町半本馬四拾六文軽尻三拾壱文
一、高山より毛呂窪迄弐里四拾八間本馬百壱文軽尻六拾五文
一、高山より蛭川庄屋迄壱里拾三町本馬六拾五文軽尻四拾三文
一、上地渡より福岡迄弐里七町半本馬百拾文軽尻七拾文
一、上地より日比野迄三拾四町半本馬四拾六文軽尻三拾壱文
一、日比野より福岡迄壱里九町本馬六拾文軽尻四拾文
一、福岡より下野迄三拾三町弐拾四間本馬四拾五文軽尻三拾文
一、福岡より上野迄壱里六町弐拾間本馬五拾六文軽尻三拾八文
一、福岡より高山迄三拾弐町五拾六間本馬四拾四文軽尻弐拾九文
一、下野より田瀬迄三拾壱町九間本馬四拾弐文軽尻廿八文
一、右村庄屋より右村問屋迄壱里本馬四拾八文軽尻三拾弐文
一、田瀬より上野迄壱里弐拾九間本馬四拾九文軽尻三拾三文
一、田瀬問屋より付知問屋迄弐里本馬百文軽尻六拾四文
一、田瀬庄屋より付知問屋迄弐里四町五拾壱間本馬百六文軽尻六拾八文
一、上地渡より付知問屋迄六里ト三間本馬三百七文軽尻弐百四文