現代の紙幣に相当する兌換(だかん)券であるが、全国の各藩ともに発行されその例が多い。美濃では、延宝八年(一六八〇)大垣藩が最初という。苗木藩の始期は明らかではないが、福岡村庄屋西尾仲右衛門の留書によれば、「天保一〇年(一八三九)初めて札金出来、福岡村は同年秋拝借し、翌年三月消印す」と記している。
苗木藩の藩札は「金札」「札金」と呼ばれ、文化三年(一八〇六)の例では「金子願書札」の名で一両・二分の二種類が発行されている。これは領内の資産家豪商(福岡村安保謙治長瀬栄蔵など)が、藩に『願い出て、金額を書き発行した金札』という意味で、これらの人たちが、調達金を差出す代わりに、願い出の形式を踏んで、金札の版元を引き請けたものである。当初は、「当辰九月より来巳三月晦日限」という短期通用のものであった。藩札は、〇、五~一mmの厚手の和紙が使用され、表に「預 金壱両 氏名」と印を捺し、裏に藩役人とおぼしき三人の裏判がある。この表裏の印影をあらかじめ村々に配って周知徹底させたうえ、領内に限って通用されている。藩札発行の目的は種々あるが、苗木藩の場合は、藩財政を賄う資金ぐりの傾向が強く、金札が主であったが銭札も見られる。
藩札
福岡村資産家
苗木藩御用達人
安保謙治(息子)
安保弘太郎
中津川市 尾沢久所蔵
福岡村栄蔵(福岡村新田、長瀬家)
中津川市 尾沢久所蔵
▲ 願い上げ奉り候預書之事(読みくだし)
一、金百弐拾六両也
右、金子預り書、御裏判預戴仕り候処実正也、当申の月より来たる酉の三月晦日限り、運上銀壱ヶ月五分之割を以て、急度相違無く差上げ、右願書御消判相願申すべく候、万一本人違乱の筋出来仕り候節は、役人共引請け、毛頭御苦労相掛け申す間敷く候、後日の為、仍て件の如し
福岡村願主 印
同村惣役人 連印
(代官)
高井浅助 殿
右は、文政七年(一八二四)閏八月福岡村御用達が札金一二六両発行にあたり、月五分の利息と共に皆済する願書様式である。
幕末期における苗木藩は、極度の財政難に陥り、その藩債総額は一五万両ちかくに及んだ。このような窮乏財政に対処する方策として、藩は多額の藩札発行を余儀なくされ、元治元年(一八六四)と慶応二年(一八六六)の両年を併せて、その発行高は五、八五〇両に達した。しかし明治の庶政一新に際会すると、この藩札の札消しをいかにするが藩内の重大案件となり腐心している。
左の文書は明治三年(一八七〇)と推測され、藩内屈指の御用達として名望のあった苗木亀山橋太郎の消札案について、福岡村御用達安保謙治がさらに検討を加えたときの留書である[史料編 四四三]。
▲ 藩札一件覚
覚
亀山勘考之札消一条別紙ニ有之、右ヲ相用一旦消札、石ニ付弐両つゝ、右ヲ三ヶ年に無理ニて返済、打続仕方ハ村方人別凡三万人、頭一ツニ付、月ニ壱匁つゝ十ヶ月集金五千両、右ヲ急場切金返済、右上納金壱万両ト五千両上納之廉ニ、出入奉公人御免願之事
苗木藩札中 安保銭札と呼称
中津川市 尾沢久所蔵
苗木藩 銭札と呼称
中津川市 尾沢久所蔵