「頼母子講」とほとんど同義に用いられる。中世以来永い間農村庶民唯一の金融組織であった。親または講元とよばれる発起人が、講中(組)を結成し、仲間を募集する。講の成員が一定の期日に一定の金額を出し合い、その金の全部を抽選や入札によって取り、講中の間で一巡すると終わる仕組みである。一旦落札した者は、それ以後は落札の権利を失い、掛銭を出す義務のみを負うわけである。無尽には現金の代わりに物資である場合や、労力である場合があって、「米無尽」「麦無尽」などと呼ばれて経済的な役割を果たし、広く民間にまで普及をみるのである。
幕末期になると、「頼母子講目録」[史料編 四四四]に見られるように、講の構成連中に苗木作法方役人や、近郷資産の名を連ねており、仕法に係わる頼母子講と思われる。なお掟文中に饗応之儀云々とあって、他のほとんどの無尽と同じ連中の親和をはかるため、飲食を共にすることが通例とされていた。
慶応三年(一八六七)田瀬村長次郎発起人の相続講三拾両無尽[史料編 四四七]は、企画綿密な規則(定)のもとに翌四年一二月より毎年二回宛、二四口の連中が開講している。但し明治維新直前のことであり、凶作年不作による領主からの御触れ等の場合においても、この無尽は休会しないことを厳として定めているが、維新変革による経済事情に終会までの一〇年以上をどのように対処したかはわからない。
このような無尽を大別して、①講親を救済する目的のもの ②資金・物品の調達、購入を目的としたもの ③代参講である。無尽が成立する要因・形態から取持講・発起講・相続講・積立講などに分類することができる。「身代限り」など破産に瀕した者を救済するための取持講や、代参講といわれるものには、伊勢講・秋葉講・津島講・稲荷講などがあった。