寛永の飢饉につき隣町『付知町史』は、「寛永一八年(一七六七)は、旱魃が続いて水稲など収穫皆無、秋には例年より早く大雪が降り、大地は凍み抜いて竹木まで枯れ、鳥獣も痩せ疲れて飢え死にし、鹿の皮も紙のように薄くなった。翌一九年は全国的な飢饉になり、村人は蓆わら・葛葉の類まで食糧にして露命をつなごうとしたがその甲斐なく、餓死した者は加子母村七〇〇余人・付知村九〇余人・田瀬村五〇余人、その他、牛馬等の家畜・山野の鳥獣など屍(しかばね)となって川原に押し出され、飛び石のように散乱し、まさに生き地獄の様相であった」と述べている。飢饉の多かった江戸時代、「りょうぶ」という木の若葉は、非常時に命をつなぐ大切な代用食糧であった。左は安永九年(一七八〇)苗木藩が村方に対し、りょうぶ摘みを下命したときのもので、仰せつけられた高山村庄屋が、代官所へ報告した組ごとの採取量である。
▲ | りやうふ覚 | ||
一、 | 壱貫五百目 | 政五郎 | |
一、 | 八貫三百め | 重助 | |
一、 | 七貫め | 岩右衛門 | |
一、 | 拾五貫五百め | 清五郎 | |
一、 | 五貫め | 平七 | |
一、 | 八貫め | 次助 | |
一、 | 八貫三百め | 半右衛門 | |
一、 | 八貫六百め | 善兵衛 | |
一、 | 拾四貫め | 甚右衛門 | |
〆七拾六貫弐百目 | |||
子六月八日 甚右衛門組 | |||
外ニ | |||
一、 | 十九〆六百目 | 吉兵衛 | |
一、 | 拾五〆弐百目 | 安平 | |
一、 | 拾八〆弐百目 | 吉右衛門 | |
惣合六百四拾六〆五百目 | |||
此石三百弐拾三石弐斗五升 | |||
一升廿匁つゝ |
安永九(一七八〇)庚子ノ年六月十日ニ書上ル
右之通、当春被 仰付候れうぶ銘々高、相違無御座候 以上
与頭
庄屋
井沢武平治 殿 史料編二九四