慶長三年(一五九八)七月一五日病床にあった豊臣秀吉は、幼少(当時六歳)の秀頼の将来を案じ、諸大名から血判の誓書を取り、秀頼に対して異心なきことを誓わせた。八月五日には、徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝ら五大老に秀頼の将来を託し、前田玄意・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家ら五奉行と誓紙を交させた。八月一八日第二次朝鮮出兵中戦局の好転しないうちに、伏見城で六二歳で没した。
秀吉の死後秀頼が成長するまでは、五大老・五奉行の合議・連帯体制によって政務代行し、豊臣政権が維持されることになった。八月二五日には、五大老によって朝鮮撤兵令が出され、家康が伏見城で政務を執った。
秀頼は、翌慶長四年二月一八日秀吉の葬儀が終ると大坂城に移ったが、前田利家が守役として補佐した。五大老の筆頭徳川家康は、政権内部の地位とその軍事的実力を背景に、有力大名伊達政宗・加藤清正・福島正則・蜂須賀政勝らと婚姻を約すなど、当初から秀吉の遺命に背く行動を取るようになった。同年閏三月三日家康と並ぶ五大老の前田利家が大坂城で病死すると、それを契機に五奉行の実力者石田三成は、加藤清正・黒田長政ら三成を敵視する秀吉子飼いの七武将に襲撃され、家康の助を借りて居城佐和山城に逃げ帰り蟄居を余儀なくされると、家康は政務に関しての独裁権を握り、また三成を生かすことによって将来の武力衝突の核を残し、独自の政権を創出するための布石とした。同年七月には五大老の一人上杉景勝が帰国すると、それを機に前田利長・宇喜多秀家・毛利輝元の三大老が相次いで帰国し、秀頼の縁戚で五奉行の一人浅野長政も領国甲斐に蟄居となった。伏見城には官僚的な三奉行長束正家・増田長盛・前田玄以と家康のみが残った。
九月二七日家康は大坂城西の丸に入って、秀頼周囲の勢力を牽制する一方、福島・伊達・最上・黒田・藤堂など有力大名に、一八〇通に及ぶ書状を送って、自己の指導力を強めようとした。
慶長五年正月、家康は上杉景勝に上洛を促したが、景勝は領内の位置などを理由にそれを拒否した。そして家康は覇権を目指す政治的・戦略的手だてをつぎつぎと講ずるようになった。家康の独断専権は、石田三成から家康を弾劾した「内府(家康)ちがいの条々」や、真田昌幸あて書状に列挙され数多いが、なかでも群を抜いて重要だった一つは、北信四郡の大名異動であった。
慶長五年二月一日家康は、他の大名抜きの単独署名の宛状(あてがいじょう)をもって、北信の豊臣大名を加増なしの横すべりで異動させた。
海津城 田丸直昌を 美濃岩村四万石
飯山城 関一政を 美濃多良三万石
豊臣秀頼蔵入地五万五千石を廃止
そして、美濃兼山の森右近大夫忠政を川中島四郡一円一三万五千石に入封させた。更科郡三万四七八六石余、水内郡五万一〇二一石余、埴科郡一万四六三八石余、高井郡三万七〇五三石余である。三月一五日海津城(長野市松代町)に入郡した。海津城は兄長可の居城であり、待望久しかったことから待城城と改称したと伝えられる。
森一族は、兼山の在地領主だったが、忠政の次兄長可は信長に仕え、天正一〇年(一五八二)三月、信長の甲信統一によって、兼山のほかに川中島四郡を与えられている。のち秀吉に属し慶長一二年長久手の戦で討死した。三兄蘭丸長定と四兄長隆、五兄長氏は、天正一〇年六月二日本能寺で信長とともに奮戦して最期を遂げた。末弟忠政は、兄長可の遺領を継ぎ秀吉に仕えて羽柴の姓を許されたが、秀吉の死後家康に近づき信頼を得ていた。その忠政が異例の大加増で兄の遺領に入府出来たから、家康の恩顧に応えて北信を守ることは必定である。これによって北信は家康の強固な勢力基礎に組込まれた。東西決戦というときに、東日本をいっきに抑えてしまうためには、家康にとって北信の領主異動は、きわめて重要な布石であった。