会津征伐と東西合戦

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会津の領国にこもった上杉景勝は、慶長五年正月以来再三にわたって家康の上洛催促を拒み、城普請を始め戦の備えを急いでいた。
 家康は同年五月三日これを反逆と決めつけ、諸大名に会津征伐を発令した。福島正則ら秀吉子飼の大名と諸大名は続々東征した。信濃大名の仙石秀久・真田昌幸・石川三長は家康に追従して大坂や伏見にいたが、国元に戻って出陣した。家康自身は、諸大名の動静を見ながらゆっくり行動し、三奉行の反対を重視して六月一六日伏見城に入り、一八日に伏見城を発し七月二日に江戸城に到着した。家康のこの行動の目的は、一時上方を離れて三成の挙兵を促すことであった。七日会津征伐の軍令を発し、一三日に先発の榊原康政らが、一九日秀忠を奥州白河口の大将として先発せしめ、二四日には宇都宮城に着任し、二一日には家康も江戸を発ち二四日下野小山に着陣した。