真田昌幸は家康に随従して伏見城にいたが、兵をまとめて帰国し、下野犬伏の宿陣にいた。七月一七日付の長束ら三奉行の連署状をたずさえた密使が陣所に訪れたのは二一日であったらしい。昌幸と長男信幸と二男信繁(後に幸村)が密議の末、父昌幸と二男信繁は西軍方に、信幸は家康方に敵味方に分かれることになった。その理由は定かではないが、昌幸の妻が三成の妻と同じ宇田頼忠の娘ともいわれ、信繁の妻が三成方の大谷吉継の娘でともに人質が上方にいるいっぽう、信幸の妻は家康の重臣本多忠勝の娘であるといった姻戚関係があったとも、また真田家の存続を賭けてのことともいわれている。昌幸・信繁父子は、すぐさま兵をまとめて上田城に帰城した。七月二四日信幸が家康軍にとどまったことを賞し、二七日昌幸領の小県郡を安堵することを約束した。