真田父子離反を知った家康は、即刻宇都宮在陣の森忠政に命じ北信にもどらせ上田のおさえとして領境のかためをさせた。小諸の仙石秀久・森忠政父子・松本の石川康長らにも急ぎ居城に帰り真田父子に備えるように命じた。
秀忠軍は、慶長五年八月二四日宇都宮を出発したあと二八日松井田、九月一日に軽井沢を経て二日に小諸城に入った。九月三日秀忠軍は随従した譜代の諸将や信濃大名と軍議を開き、二度にわたり使者を送って真田昌幸に降伏を勧告したが昌幸はこれを拒否した。五日寄せ手は上田砥石城を攻め昌幸軍が退去したので真田信幸を入れ守らせた。六日秀忠軍総勢三万八千は上田城に総攻撃をかけた。秀忠の本陣を神奈川の手前まで、上田城の東方は徳川譜代の大名が陣をしきつめ、南方には石川康長、西方の塩尻口は森忠政が固めた。真田勢は二千五百であったが、策略を駆使して迎え討ち寄せ手を破った。上田城との戦いで足止めされていた秀忠軍は、九月一二日に関ヶ原の急を聞いて急遽信濃の大名を上田城の備えに残し関ヶ原に急行した。関ヶ原では東軍八万、西軍九万の大軍が対陣したが、九月一五日に西軍の小早川秀秋らの寝返りにより僅か一日の戦闘で東軍が勝利して戦いは終わった。関ヶ原に向かっていた秀忠軍は、この日は戦果を知らぬまま筑摩郡本山(塩尻)に止泊し、一六日には福島の山村良勝の邸宅に泊まり、山村・千村の両氏を召し先の木曽攻めの軍功(三九九ページ)を賞して金熨斗、腰物を賜賞したという。一七日に妻籠城に泊りここではじめて関ヶ原戦勝の知らせを聞いた。一八日はそのまま関ヶ原に向けて行軍したが、可児の願興寺から折り返すことになり急いで江戸に上った。