木曽・東濃の状勢

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これより先、木曽は秀吉の代官犬山城主石川備前守の支配下にあった。岐阜城主織田信秀は一二万石を領し、美濃では最大の大名であった。始めは家康方であったが三成方についた。石川はこれと通じていたので大坂方に属し、徳川軍の西上を阻止せんとして犬山城を固め、木曽では配下の下代官原孫右衛門・同苗藤左衛門兄弟に贅川の固めを命じ、木曽谷を塞いでいた。
 東濃では苗木城主川尻肥前守は大坂の備え大坂口を固めていたので、城代関治兵衛は大坂方に呼応した。
 岩村城主田丸直昌は、この年二月家康に北信海津城から岩村城主に転封させられた豊臣大名であったが、家康の会津征伐に応じて小山の陣にあった。大坂の変を開いて豊臣の恩顧を感じ、家康に大坂方に属する旨を告げ、木曽路を経て岩村に帰った。石川備前守を援けて徳川軍の西上を阻止せんとして、土岐郡高山・神箆の砦を固めさせ、岩村城は老臣田丸主永に託して大坂に赴いた。
 土岐郡の妻木城主妻木安頼は徳川方に属した。
 加茂郡犬地の遠藤小八郎胤直・小原の遠藤慶隆は岐阜城主織田信秀に召されて大坂方に属するよう誘われた。慶隆は徳川軍に属する方が利なりとの報を得て家康に属した。美濃の諸将がほとんど大坂方に属したのは、岐阜城主織田信秀が大坂方に属したことに起因するといわれる。