木曽・東濃の戦い

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家康の小山の陣において、大坂の変に対処する軍議の席上、木曽を抑えて東軍の西上を阻んでいる石川備前守勢の攻略が問題になったとき、木曽義利が忠誠を願い出ていたので、家康はこれを起用しようとして本多正信・大久保十兵衛に謀った。両人は義利は愚鈍でその任に堪えないと思い、木曽の旧臣で下総阿知戸に浪人中の山村甚兵衛良勝・千村平右衛門良重・馬場半左衛門昌次を推挙した。七月二八日家康は、山村・千村・馬場の面々を小山の陣に召して木曽攻めの先鋒たることを下命し、八月一日木曽の旧臣あての一書を託した。
 
 信州木曽中諸侍、先規の如く召し置かるるの条、各々その旨を存じ罷り出で、忠節を致すべく候、猶山村甚兵衛・千村兵右衛門尉・千村助左衛門尉申すべく候也
    慶長五年八月朔日 朱印(家康)
                  木曽諸奉公人中  本多佐渡守
                                  奉之
                           大久保十兵衛
                                     (岐阜県可児郡木曽としえ氏蔵)
 
 馬場半左衛門は老齢で病にかかっていたので、小山に留まって木曽の軍用を勤めることになり山村・千村らは小山を発って木曽平定に向ったが数十人に過ぎなかったので、甲・信に潜んでいた木曽家の遺臣に檄を飛ばして一族同類を招いた。塩尻にて松本石川玄蕃允の許にあった山村良勝の弟八郎右衛門が加わり、甲州浅野長政の許にいた良勝の弟山村清兵衛が馳せつけた。木曽に攻め入り八月一二日贅川の砦を守っていた石川の下代官原孫右衛門・同藤左衛門勢を破った。これを聞いた木曽の旧臣で石川の下代官となっていた原図書助・三尾将監・千村次郎右衛門が内応してきたので、良勝の軍勢はほとんど抵抗を受けることなしに木曽谷を平定して妻籠城に入り、城を修築して陣を備えた。木曽平定の旨を大久保十兵衛に報告すると、家康の命をうけた大久保十兵衛から山村良勝・千村良重に、木曽平定の功を賞し、遠山久兵衛・小笠原靱負らを差遣するから東濃攻めにかかるよう命令を受けた。
 遠山久兵衛は、木曽勢の応援を受けて苗木城を奪還、天正一一年(一五八三)以来一八年振りに入城した。次いで岩村城を囲み城代田丸主永は城を明け、ここにおいて東濃の西軍は潰滅した。