家康は、木曽旧臣の戦功を賞し、美濃国可児郡・恵那郡・土岐郡において一万六二〇〇石余を与えた。
(表)
右為御知行被進之候此内壱万石は下総之替六千弐百石は木曽之替に相渡申所也重而御朱印申請可進之候仍如件
慶長六年二月三日 加藤喜右衛門
大久保十兵衛
木曽衆 彦坂山刑部
右のいきさつについて「木曽考続貂」は次のように述べている。
家康から一万石と木曽を賜ったが、道祐は木曽は東山道の要害で良木の出る所であるから私領とすべきではないとして辞退した。家康は道祐の潔白を賞めて、木曽の替地として美濃にて六二〇〇石、都合一万六二〇〇石を賜った。道祐はこのうち良勝と合せて五九〇〇石を取り、木曽攻略を共にした木曽の旧臣にそれぞれ配分した。これを聞いた家康は、小禄では木曽を守ることは出来ないとして年々白木五千駄を下されたが、木曽は元来田畑少なく百姓常に飢渇に苦しんでいるところであるから、これを谷中百姓に与えて下さるようにと辞退したところ、家康は、六千駄は谷中百姓に下され、道祐には別に五千駄下されたと、道祐の徳によるものと説明しているが、史実はどのようであったろうか。
慶長五年八月朔日付家康が木曽奉公人中あての朱印状、同五年一〇月二日付木曽代官任命朱印状、同六年二月二日付の知行目録について考えてみたい。
関が原役が慶長五年九月一五日に東軍勝利のうちに終結して間もない一〇月二日、家康は山村道祐を木曽代官に任命し、その任務については「秀吉の代官石川備前の如く」として、木曽山の資源とその運材について山川一元の管理を委ねている。これは家康が秀吉と同様に木曽を直轄領とした意図が明白であり、木曽を道祐に与えようとしていたとは考えられない。そしてその四ヶ月後に木曽衆あてに一万六二〇〇石の知行目録を出している。その知行目録の末尾に「一万石は下総阿知戸の替地、六二〇〇石は木曽の替地としている。これは家康が小山の陣において木曽攻略を山村甚兵衛、千村平右衛門らに命じ、八月朔日付木曽の旧臣に対して山村・千村らに協力するならば「先規の如く召置るるの条」として、天正一〇年信長の死後から同一二年小牧長久手の戦まで木曽氏が家康に属していたときのように、本領を安堵する旨約束されていたものであって、山村一人に当てられたものではない。前掲「知行目録の右のわけ」にみるように、木曽攻略の棟梁であった山村・千村を第一としてそれぞれ木曽衆に配分されたものである。また木曽考にいう、木曽代官として小禄では木曽の管理は出来ないとして下付されたとする白木五千駄は代官手数料とみるべきものであり、谷中百姓中に出された白木六千駄は、谷中百姓中の生活保障的なもので、その既得権を認めたものである(以上のことについては、「近世林業史の研究」(所三男著)に触れられている)。
木曽における谷中百姓中に下付された白木六千駄に類するものは、関が原役後家康の蔵入地となって木曽と同様に役木(木年貢)を上納した裏木曽三ヵ村(加子母・付知・川上村)にも同様の制度があり、初期には木材、後に板子に変ったが、享保一四年米納に切替わるまで温存されていた。三ヵ村では「百姓渇命のために下された」御救木と称し、役木の上納を皆済後仕出して材木商角倉に売り、その代金をもって「飯米塩噌」に当てていた。このような様子からみると、耕地の少ない木曽で中世以来「百姓御救いの御免木」があり、当時木材の搬出は白木であったから、家康時代になってもそのまま受継がれたものと思われる。