慶長五年八月朔日の家康朱印状に「木曽諸奉公人」、同六年二月二日の御知行書立に「木曽衆」とある。関が原役に家康の招致に応じて木曽、東美濃攻略平定に功績のあった木曽一族の旧士は、前掲の「御知行書立の右わけ」にみるとおり、美濃に知行を与えられた。木曽家伝集(可児郡久々利木曽としゑ氏蔵)によると、「慶長六辛丑年十一人の居所これなくと願奉り屋敷拝領仕り度旨なり、幸濃州可児郡に久々利と云う所あり、住居せしむべき由仰せ」とあるから、関が原直後には山村を始め木曽の旧臣は美濃久々利に居住したことがわかる。
山村氏は木曽代官並びに福島関所守りとして福島に居館を構え移り住んだ。その時期は福島関所の開発時期とみられるが、開設時期が定かでないのではっきりしない。
千村平右衛門は慶長八年信州伊那代官に任命され、遠州奥山代官を兼任した。
元和元年(一六一五)木曽が尾張藩領に編入された際、馬場三郎右衛門は行動を共にせず江戸に詰め、御書院番組に入り永井右近大夫の組下となった。
千村平右衛門・馬場三郎右衛門を除いた木曽衆は、山村甚兵衛を始め尾張藩に帰属した。千村平右衛門は幕臣としてこれを拒んでいたが、のち遅れて帰属した。寛永二年尾張藩主義直が鷹狩にて久々利を訪れたとき、千村九右衛門・原藤兵衛の二人は故あって山村・千村同心知三二〇〇石のうちから二〇〇石ずつ与えられて一家を創立した。
尾張藩に付属した山村甚兵衛、これと同格の千村平右衛門は職制では大寄合(尾張藩分限帳)に列せられ、原図書助・千村助右衛門・山村清兵衛・千村二郎右衛門・山村八郎右衛門・三尾将監・千村藤右衛門らの席次は、中寄合の下並寄合の上座に配され、その地位は代々変ることがなかった。尾張藩帰属後、名古屋城下に屋敷を与えられ住居することを義務付けられたが、久々利の屋敷はそのまま差し置かれた。そして在所お暇三〇日(年間に六〇日)を願い久々利にも住し濃州を在所といった(木曽家伝集・尾張藩木曽衆考・林董一著)。