家康は慶長五年関ケ原役後、清洲城主福島正則を広島に移封し、四男松平忠吉を武蔵忍一〇万石から清洲五二万石に移した。(石高は諸説があって、まちまちであるが、当時は尾張国から知多郡が除かれていたから五二万石が妥当であろうとされる)。忠吉は慶長一二年三月五日急死し後嗣がなかったので絶家となった。同年閏四月二六日第九子徳川義利を甲斐国府中二五万石から清洲に移封した。義利の母は石清水八幡宮祠官志水宗清の娘於亀の方で相応院という。義利は慶長五年一一月二八日大坂城西の丸で生まれ幼名五郎太後義知、義利、義直と改めた。義利が清洲城城主になったのは六歳五ケ月であったので、母と共に駿河城にいて老臣平岩親吉が、犬山城九万三〇〇〇石を与えられて、清洲城を守り藩政を代行した。実質は家康の直轄地同然であった。
慶長一三年八月二五日秀忠から尾張一円を与える領知状が出された。
尾張一円之を出し置をわんぬ、全く領知有るべきの状件の如し。
慶長十三年八月廿五日 (秀忠花押)
徳川右兵督殿へ
領知状には、知行地名と石高が記載されるのが普通であるが、この領知状には尾張一円として石高の記載がなく、全く異例のものである。
家康は東海道をすべて譜代大名に入替え大坂の備えとしたが、尾張は重要拠点であったから忠吉の死により新城主の決定を急がねばならなかった。