名古屋城築造

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清洲は応永一二年(一四〇五)斯波義重が尾張国の守護職になり、このころ清洲城を築いたといわれるが、五条川の水害を蒙り土地も狭かったので家康は、美濃路・伊勢路に通じ海運の便もある那古野の地に新城の築城を決定した。この地は那古屋・那古野とも書いた。室町末期までは那古野荘、大永年間今川氏が築城をし、のち織田信秀がこれを落し移り住んだ。信長も五歳ころから居住したが、弘治元年清洲城の織田信秀を滅して清洲城に移ったため廃城になった。
 名古屋城築城は慶長一四年に決まり、木曽山、裏木曽山より築用材の搬出が命ぜられた。裏木曽川上村の庄屋文書の覚書に長振山から名古屋城用材伐出しをした記事がある。翌一五年正月九日豊臣恩顧の西国大名加藤清正ら二〇名が助役を命ぜられ普請始めを行った。城郭は本丸、二の丸、三の丸、御深井丸よりなり、天主閣は五重五階、穴蔵一階、屋根は二重以上を銅瓦ふき、大棟に金の鯱を飾り、同一九年にはほぼ完成した。城郭面積二三万余坪に及び、諸機構が完成するまでには少なくとも一〇万石以上の用材を必要としたと推量されている。これらの木材は主として木曽、裏木曽山から採材されたとみられるが、まとまった記録はないといわれる。

名古屋城