木曽尾張藩に編入さる

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元和元年(一六一五)四月九日家康は西上して名古屋城に入り、同月一二日藩主義直は浅野紀伊守の息女を迎え婚礼が行われた。一四日家康は名古屋を発して大坂出陣の途についた。つづいて義直は同一六日に出発した。大坂滞陣中、五月五日の記録に「山村甚兵衛・同七郎右衛門・千村平右衛門・同十三郎そのほか木曽の士、両御所様仰せによって、宰相様御構に加えられ」とあり、これはのちに家康が木曽を尾張家に付与する前提であったろうといわれている。
 五月八日大坂城が落城し、秀頼・淀君は自刃し豊臣家は滅亡した。戦後処理を終へ帰途についた家康は、八月一日名古屋城に立寄った。源敬様御代記録によれば、家康は尾張藩国奉行原田右衛門を召して、義直結婚後の台所の費用を尋ねた。一日黄金一枚程と言上したところ木曽は運上一日黄金一枚のところであるとして義直に加増した。諸書いずれも奥方高原院お春の方の化粧料といっている。そして山村甚兵衛・同七郎右衛門、千村平右衛門を召して、木曽は義直に加増したが、材木については公儀のご用にも相立べく旨心得よと仰付られ、尾張藩に帰属することを申し付られた。
 事蹟録によれば木曽が加増された翌八月一二日「濃州御領分左之通相渡候」とあって、可児郡錦織村まで一五ヵ村(木曽川湊山村預所)、加茂郡下麻生村ほか一五ヵ村(飛驒川下麻生湊)、裏木曽三ヵ村(加子母、付知、川上)、大井村(陸上木曽材番所暮領)、武儀郡上有知村ほか二三ヵ村、合せて六三ヵ村高三万二二八二石七斗五升七合が加増された。