山川一元の支配

409 ~ 409 / 667ページ
木曽の価値は、莫大な森林資源の収益があることはもとよりであるが、木曽の地は中世よりこのかた一朝有事の際にこれを塞ぐと、東西の連絡が断たれる要害の地であることは知られている。天正一二年小牧・長久手の戦には家康も妻籠城の抵抗に遭い苦い経験を得ており、木曽を掌中に収めておくことは、軍事上からも大切である。家康が慶長一七年山村氏に命じ木曽の年貢の整理をさせ駿府の勘定所に提出させているのは、木曽を尾張藩に与えることを予想しての、かねてからの深慮があったと推考される。さらに重要なことは、木曽山と同時に木曽川も加増されたことである。川は中央をもって境とすることが通例であるが、木曽川全部を拝領することによって、水付の部分は全部尾張領になったことである。これによって尾張藩は、流木権・通船権・漁業権ら河川の利用に関するすべての権利を押えたことになる。