慶長一三年(一六〇八)八月将軍秀忠から出された領知状には石高の記載がなかったが、同年伊奈備前守忠次が行った検地では尾張国の総高は次のとおりであった。
一 惣高四七万二三四四石七斗七升七合
慶長一七年(一六一二)木曽川大洪水により川筋が変り美濃と尾張の国境が変化し、美濃国から木曽川左岸となった部分が尾張国へ移管され自然に尾張領が増加した。その高は次のとおりである。
一 高一六六一石二斗四升
慶長一七年正月五日木曽川沿いの羽栗郡二ヵ村、中嶋郡二ヵ村、可児郡六ヵ村が尾張領へ加増された。
一 高四三七三石四斗五升
同年四月一日各務郡鵜沼村が加増
一 高三二〇六石四斗五升
元和元年(一六一五)八月一一日木曽および木曽川、翌一二日に美濃において裏木曽三ヵ村・木曽川・飛驒川沿いの村六三ヵ村が加封された。その村高の総計は次のとおりである。
一 合高三万二二八二石七斗五升七合
木曽は無高の地とされ村高が結ばれていないのでその年貢高一六八二石五斗五合は、領高の外に置かれていた。
元和五年(一六一九)九月一六日美濃国の幕領直轄地一三七ヵ村高都合五万石が尾張領に編入された。これは幕府創立期に家康の直臣で将軍から領地を与えられている人たち(旗本)で、その知行地をそのまま持って尾張家の家臣となったのである。尾張藩にはこのような給人が、付家老成瀬隼人正以下木曽衆を加えて一三家あってその高が約五万石あった。
尾張藩高は異例で、慶長一三年の石高の記載のない領知状、その後の加封の領知状、将軍の代替りごとに出される領知状も受けておらず、幕府が尾張藩の公表高を示したものはなにもなかった。そのために尾張藩から幕府に提出した知行目録の現存する七回とも石高が一致しない。尾張藩の公式家格である公称知行高は次のようになっている(物語藩史・新人物往来社刊)。
(表)