七代 徳川宗春  幼名万五郎 求馬 初名松平主計頭通春

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 元禄九年一〇日二八日三代綱誠の第二〇子として尾張国に生まれる。宝永五年正月二日吉通の一字をうけ、通春と名乗る。享保元年三月朔日譜代大名に列せらる。同年七月二二日従五位下に叙され、主計頭と称す。
 享保一四年奥州染川三万石をうく。同一五年一一月二八日継友養子となり、本家尾張徳川家を継ぐ。同一六年正月一九日将軍吉宗の一字をうけ宗春と名乗る。従三位に叙され、左兵衛権中将に任ぜられる。
 宗春は豪放潤達なる性格で、学を好んで素養深く、従来の消極政策を放棄して、殖産興業の積極政策をとり、士民の更正と名古屋の繁栄をはかった。また藩主として治国安民の道は仁にあるとして、「慈仁」の二字を壁間に掲げ坐右銘とし、その在職一〇年の間に一人の死刑囚も出さなかった。封を継いだ翌年享保一六年に温知政要一巻を著して施政の大綱を示した。宗春の自由政策は幕府の嫌忌するところとなり、元文四年正月一三日「不行跡に付国中仕置立難き故」として、幕府より蟄居を命ぜられ、同年一〇月三日名古屋城に戻り三の丸屋敷に幽居した。明和元年一〇月一八日下屋敷に没した。享年六九歳。法号章善院殿。建中寺に葬る。
 宗春は没するまで蟄居は解かれず、その墓石には金網がかけられていたといわれるが、死後七五年後の天保一〇年一一月幕府は蟄居を赦免して従二位権大納言を追贈した。