宝永二年六月二日尾張藩二代光友の五男松平但馬守友著の四男として生まれる。享保一七年五月二二日尾張藩支藩美濃高須藩主二代義孝の養子となり、同年六月三日封を継ぐ。元文四年正月一三日尾張宗家宗春隠居により宗家の封を継ぐ。同年二月三日将軍吉宗の一字をうけ宗勝に改める。従三位に叙せられ、参議兼左近衛権中将に任ぜられ、同五年一二月朔日権中納言に任ぜられる。
宗勝は宗春の代の政令を悉く改め、宗春の著書・遺物の大部分を廃棄せしめた。幕府に対する遠慮である。宗勝は文教を奨励し延享五年二月巾下埋門外に学問所を創立した。
元文四年山村家の御免白木五千駄を一五〇〇俵の米に切替え、翌五年福島立合役所を廃し上松木曽材木奉行所を復した。宝暦一一年六月二二日名古屋城に没す。享年五七歳。法号賢隆院。贈名源戴公。建中寺に葬る。