一四代 徳川慶勝  幼名秀之助 初名慶恕(よしくみ)

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 文政七年三月一五日支藩美濃高須藩主松平義建の第二子として江戸四谷邸に生まれる。天保一一年一二月一六日従四位下に叙せられ侍従中務大輔に任ぜられる。嘉永二年六月四日慶藏の遺領を継ぐ。同年七月九日将軍家慶の一字を受け慶恕と改め、従三位に叙せられ宰相兼中将に任ぜられる。同三年一二月二三日権中納言に任ぜられる。
 日米通商条約の違勅問題、将軍継嗣に一橋慶喜を推挙して大老井伊直弼と対立したことから、安政五年七月五日将軍家定から隠居・謹慎を命ぜられ戸山邸に幽閉される。万延元年九月四日幽閉を解かれる。文久二年権大納言に任ぜられる。
 元治元年八月長州征伐総督に任ぜられ出征する。明治元年正月二四日特旨をもって金一万五〇〇〇両を受ける。
 同年四月二八日甲信征討の出兵を命ぜられ出陣する。同二年慶勝、義宜に甲信二州鎮圧の功により賞典禄一万五〇〇〇石を受く。
 同三年一二月三日名古屋藩知事を命ぜられる。同四年七月一〇日同知事を免ぜられる。
 同八年一一月二四日義宜没して嗣子なきをもって再び家を継ぐ。同一三年九月養子義礼に家督を譲る。
 同一六年八月一日没す。享年六〇歳。法名賢徳院。墓所東京西光庵。