山村家譜によると、山村氏の祖は良道といい近江国山村の出身であったから山村を氏としたという。その子良利は初め室町幕府に仕えたが、後武田氏に仕え天文二四年(一五五五)木曽義康武田信玄に隷属後は木曽氏に仕えた。永禄三年(一五六〇)飛州との戦には、山村三郎左衛門尉(良利)、同三郎九郎(良候)父子は功名を挙げ信玄から感状を受けた。木曽義康没して義昌家督を継ぐと、良候は義昌に仕えて功名を立て次第に重き存在となった。天正一八年(一五九〇)木曽義昌、豊臣秀吉によって下総国阿知戸に転封され、木曽家中は離散した。良候、良勝父子は義昌に従い下総国に赴いたが、良候は木曽に戻って豊臣の代官石川の元で下代官を勤めていた。
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原役起るや、良勝は木曽の遺臣と共に家康に召されて木曽平定を命ぜられた。良候も良勝に力を合せ木曽・東濃の平定に戦功を立てた。その功により道祐(良候)は木曽代官に任ぜられ、父子で合せて五七〇〇石をうけた。木曽福島関所守備を兼任し、福島の木曽氏館跡を拝領し屋敷を構えた。
元和元年(一六一五)八月木曽は家康から尾張藩主義直に加増されるにおよんで、山村氏は尾張藩の附傭となったが、木曽福島関所は幕府の直轄下におかれていたので、山村氏は幕臣と尾張藩に両属することになった。山村氏の木曽代官と木曽福島関所守備の任務は、江戸時代を通じて変ることがなかった。