江戸幕府においては「御目見」は、幕臣の格式を示すものであった。将軍に謁見する資格を有する者を御目見以上、その資格のないものを御目見以下といった。万石以下で御目見以上を旗本、御目見以下を御家人といった。御目見以上の家に生まれた者が、はじめて将軍に謁見することを初御目見といい、家督知行の上で重要な意味をもっていた。御目見をすますことによって将軍との君臣関係が確認されるものであり、従って家督知行の相続権を生じることになるのである。相続にあたり御目見が重要な要件となるのは、大名家の場合も同様でこれを済ませていなかったために、嗣子なきものとして所領を没収され家名断絶した例もある。御目見には、家格により複雑な礼式が定められていた。初御目見に際して将軍家への献上は家格別にすると次頁の上表のようである(国史大辞典吉川弘文館刊)。
(表)家格別献上品
(国史大辞典 吉川弘文館刊による)
山村氏が将軍に謁見するときは、将軍の代替り、自身の家督相続のお礼・嫡子の初御目見などであった。御目見は普通式日などに行われたが、山村氏は参勤交代がなく不時参府であったから、尾張藩を通じ願書を出し手続をとって許可を得た。嫡子の初御目見は父子同伴で謁見をした。
山村家の将軍御目見の献上品は「木曽考続貂」の系譜にみえるが、これによると、太刀・毛氈五枚・銀馬代(註1)銀二枚などとなっている。自身家督継目のお礼の際には、先代の遺物太刀を献上するのを例としているようにみられる。嫡子は太刀・銀馬代となっている。将軍からは御暇の節時服・紋付羽織を拝領した。
御目見の服装は、熨斗目(註2)・長袴・小刀を手挟んで御前に出た。
江戸中廻り・道中について岐蘇古今誌に次のような記事がある。
中小姓四人
引馬(註3)
対の挟箱(註4)
七ツ道具(註5)
立傘袋なし
合羽箱(蓑の箱出申さず候)
押 二人(一人の時もこれあり候)
右の供廻り道中格式は、御番頭並と御目付陰山数馬殿申されたりとあり、万石が黙許されていたようである。
註1 銀馬代 献上の馬の代りとして贈った。金馬代は大判一枚。銀馬代は銀一枚。
註2 熨斗目 無地の練貫(ねりぬき)で、袖の下部と腰のあたりに格子縞や横縞を織り出したもの。江戸時代小袖に仕立てて、士分以上の者の礼服として麻上下(かみしも)の下に着用した。
註3 引馬 鞍・覆をかけ美しく飾り立て連れていく馬。
註4 挟箱 着替用の衣類など入れた箱、棒を通して従者にかつがせた。定紋を付け武士の格式を表示した。
註5 七ツ道具 道中の七ツ道具(槍・長刀・台笠・立傘・大鳥毛・馬印など)
註6 押(おし) 先払い