一代 山村良候  三郎左衛門 初名三郎九郎 七郎右衛門 隠居道祐

421 ~ 423 / 667ページ
天文一三年生。父は良利、幼少より木曽義康に仕え、永禄三年八月飛驒三木直頼の勢奈川口、西野口の両方から木曽に侵入、西野口は良利・良候父子ともにこれを防ぎ長峰峠に敵を迎え、良候敵将檜田次郎左衛門と組み遂に討取った。飛驒勢はこの勢に押されて退散したという。時に良候一七歳、信玄から感状が出された。
 元亀三年一一月父良利累年の功により美濃国安弘見に三百貫をうけ、良候には今後の奉公を期待して同国茄子川・千旦林の地にて三百貫、父子合せて六百貫の知行を受けた。
 天正三年勝頼は、良候に木曽義昌への奉公を誓わせて信州手塚五十貫文の地を与えた。
 天正一八年義昌下総国阿知戸へ移封せられるにおよんでこれに従ったが、義昌没し慶長三年その子義利が改易となると、良候は良勝を残して木曽に帰り、三留野田屋に住み剃髪して道祐と号した。豊臣の代官石川備前のもとで、黒沢・玉滝・三尾・石郷の下代官を勤めた。
 慶長五年関が原戦が起ったとき、石川備前は道祐が木曽にいては関東方に通ずることをおそれ、犬山城に招置して留置いたが、道祐は密かに脱出して木曽に帰り家康の命をうけて木曽平定に来た良候と合し、木曽・東濃の平定に尽した。関が原の戦が終ったとき、家康はその功を賞し木曽衆に一万六二〇〇石を与えた。道祐・良候父子はこのうち五七〇〇石をうけた。そのほかに白木五〇〇〇駄を年々下付されることになった。木曽代官に任命された。
 慶長七年一一月二日没す。享年五九歳。法名幡龍院殿傑庭玄勇大居士。長福寺に葬る。